なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。
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なんにもなくなっちゃった
前コラムの続きです。
なにより、自分がなにに引っかかっていたのか? を理解できたので、もうこの先こだわらなくて良さそうです。面白いですよね。正解を知ったわけでもないのにこだわりが無くなることがあるんですよね。それが自己理解の影響の深い部分ではないかと考えています。
これが私にとって、1つの答えでもあるからです。
++++ ここで終わっているので、この続きを書きます。
やはり念を押しておきたいのは、私は、仏教が好きな方や伝えている方、仏教に限らず信仰をお持ちの方へ問題提議をしたり、攻撃めいたことを目的としていません。何度も書きますが、私がこだわっていたことと気がついたことをアウトプットしているだけです。お陰様で、自分の引っ掛かりが自分で理解できたので、それこそ執着が消え失せつつある最中です。「人はいろいろな価値観があるよね」「私もそう、他の皆さんも自分の生を生きているよね」ということで終わりです。
そしてこの次に起きたこと
このようなこと(皆が自分の生を生きている)が言葉だけではなく、感覚として胸中に広がり、そして一瞬にして、もう本当に何も無くなってしまったんです。
「あら?! なんにもなくなっちゃった。あらまぁ。それじゃあ もうやることなくなっちゃった。なんにもしなくていいじゃん。何についても、なんにも考えなくたっていいじゃん。」と。
しかし、時間が経ち、「コラムに書きますね。」と宣言したからにはそれはやろう。というナニカが戻ってきました。
こ体験の最中、なんにもなくなっちゃっていた最中に思ったんですね。
これじゃあ、別のコラムに引用した言葉、ヨーガの伝統的開祖の言葉の「ヨーガの目的は生きながらに死んだ人になる」ようなもんじゃないか。って。
こう思いつつ、
「人間は執着・煩悩があるから生きている感じがするんだろう」ってことを体感しました。
生きている感じを味わいたいから、苦しんだり、悩んだり、喜んだり、耽溺したり、争ったり、愛したりするんだろうと。
実は以前にも
実はわたくし、ざっくり四半世紀前にも、「人間は執着があるから生きている感じがするんだろう。本当になにも無いと、生きている感じがしないのだろう」という予定も予想もしていなかった体験をしておりまして、その体験をこれまであまり多くない複数の方にお話したら、そのうちのもっと少数の知識のある方に「それを悟りというのだよ」と意見をお聴きしたことがあるんですが、おなじ「人間は執着があるから生きている感じがするんだろう。本当になにも無いと、生きている感じがしないのだろう。」という体験にも様々なバリエーションがあることを今回知りました。
悟りかどうかは分かりません。
遥か以前と違い、今はもう悟りを目的にして?求めて?生きていないので、この辺りは正解や答えが欲しいという欲求は今は無いかな思っています。そうですね、別の表現なら真理追及欲求ですか? これに関しては非常にモチベーションが低いという事だと思います。
それは、宗教家や、なにかその専門の方にお任せします。
私個人は、例えその一瞬悟りのような時間があったとしても(以前のもそうだったかもしれないし)、それは人間生活をしているのなら永続するのは難しいです。出家したらどうなのかはわかりませんが、日常生活をして、コミュニケーションをして、というような日常生活をおくりつつ悟りの境地?の維持なんてできるの? というのが正直な感想です。
それと、あのなんにもなくなっちゃった時間の最中に、「これは楽しいとか、嬉しいとかということもなくなっちゃうわけか。この状態を維持しようと思ったらそれも必要じゃない、どころか邪魔かもね。なるほど。」と思ったんですよ。
ですから、前述の
『しかし、時間が経ち、「コラムに書きますね。」と宣言したからにはそれはやろう。というナニカが戻ってきました。』という感覚になったのだと思います。目的を設定したから。そこに意識を向けたから。
そのコラムを書こうと思い出したときは、感情はまったく動かずに「書きたいと思ってもいないのに、書く必要あるの?」ということも一瞬よぎったんですよ。そして次に「いやいや、これすらもしなかったら、もうなんにもないままだよ。」と煩悩を自分でかきたてたような、取り戻したような感じでした(笑)
以前との違いは生命力、健康状態
前回と今回の体験が起きた時の環境・背景は大きく異なっています。
四半世紀前には、生命力の火は小さく小さくなっており、気力も弱く、とてもじゃないけど健康体とは言えなかった。
今回は、生命力は盛んで、生きてきた中で最高に調子が良いという自覚がある真っ最中でしたし、ちょこちょこ加齢の影響はあってもお陰様で健康。
あくまで推測の域を出ませんが、悟りのような状態も、本人の状態により感じ方も、見える映像も色々だろうとおもうんです。
ですから、それがどんな状態だろう?と求めても意味がない。欲求の無いところに在るのだとしたらですよ。仮定です。
それを心の奥底で「快楽の一つ」としてレジャーのように体験したいと求めているのなら、創りだした「悟りもどき」でも良いじゃないかと思うんです。
スタイルとしての瞑想もワークも何にもしなくても、いつでも勝手に脳内で創りだせば良い。それを求めているんだから。
私は出家していないし、修行と言われるなんですか?決められたおつとめ?もしていないので、自己勝手ではない決められた修行がどの位悟りに反映するのかは全くわかりません。四半世紀前も今回も、普通に日常生活をしていた最中に訪れた「その時間」でしたので、それに向けてなんにもしていないです。
今思えば、あのまんま(なんにもなくなっちゃった状態。無?空?)でもなるようになっていくんでしょうね。生命があるし、生きているから。今でも、その状態になれるとも思うけど、このコラムを書き終えるまでは「死人のように生きる」のではなく、脳内を動員して文章を書いていきたいと思います。
訂正
う~ん、やはり感覚を再現はできるだろうけど、あの時の「なんにもない」という状態にはなれないかもな。
できているつもりになっても、ただ、過去をなぞっているだけの、なっているつもり。でしかないだろうな。
やっぱり自分で感覚を創りだすだけだろうな。
そうか施術中には時々あったかも
そうか、思い出しました。アメブロに書きましたよ。
施術中に「なんにもない」が訪れた時のことを。(https://ameblo.jp/creating-fun-okinawa/entry-12374993144.html)
あの時は、クライアントの体験を共体験していただけだという自覚があるのですが、アレが自分が日中普通にしていたときに起きると、内面はこのように感じるのでしょうね。
そして、なんと! ここまでは前置きで、本題はこの先です。
「教団X」から学んだブッダ 続編
こだわりがあり、「間違っている(と、当人が捉えている)ことを糾弾したい」「主張したい」ということがありますでしょ?
私が前のコラムに書いたような「引っ掛かり」とか「こだわり」もその中に入っています。
そして、ブッダにこだわる、仏教にこだわる、教え方にこだわる、理念にこだわるということも、それはブッダの言いたかったこととは逆ではないか?という、オマエは何様じゃ というビックリ発言を書いたわけです。私は。
というのも、それもこの小説の中の主人公の講話から得た私の知識です。何度も書きますが、仏教の経典?でもなければ専門書、解説書でもない。
しかし
広々とおちついた態度をもって異端すらも包容してしまう。仏教が後世に広く世界にわたって人間を心のうちに温かい光を灯すことができたのは、ブッダのこの性格に由来するところがたぶんにある。 ー「教団X」より引用
という事ならば、排斥や糾弾ではなくて、追求でもなく包容ではないかな? と。
特定の教義でもないんじゃないかな? と。
と、ここでブッダは終わりです。
ご興味のある方は、一度読んでみてください。
引き続き、この小説を読んで、まとまった私の体験や脳内について書いていきます。
リミックスの弊害
多種の信仰があり、多種の宗教があり、教えがあり、法則と言われるものがり、生きるヒントがあり、人さまの体験があり、当然自分の体験もある。
ここでは、教典?聖書?教えが書かれた本がないことで起きることを眺めていきたいと思います。
私の価値観の中も、多種の信仰があり、多種の宗教があり、教えがあり、法則と言われるものがり、生きるヒントがあり、人さまの体験があり、当然自分の体験もある。これらがごちゃまぜです。非常に都合よく脳内に収まって、矛盾する内容も適材適所で登場します。ご都合主義の最たるものでしょう。
「ひねくれバイアス」ということを以前のコラムで書きましたが、私たちのバイアスはもともと都合よく働くのが当たり前なんですよね。都合が良いからこそ、それを変えていく(価値観を変える)時にすったもんだ起きたりするんですから。
自分の生き方を支える時に、1つの宗教を信仰して、それが自分に根差している時は、「疑問、求め」には答えがありますでしょ? 「聖書に書いてあります」というやりとりを映画の中や小説の中で目にしますと、ゆるぎないな~と思うわけです。ある意味ブレない。ブレたら答えが聖書の中にあるわけだから。
私の知人にも宗教団体に入信して、信仰をしている方がもちろんいるのですが、私が何か疑問を持っていて、それを話したりすると「教義では」と何かしらのアンサーを持っています。いや、何かしらのアンサーではなくて、教義の中の明確な答えですね。失礼しました。
私はそんな「それはこのように考えられている」という明確な答えを聞くことも興味深いので、キネシオロジー仲間のお坊さんに「仏教では、〇〇について、どのように捉えているのですか?」と質問をしたことがあります。その時の明確な仏教的なお答え(ブッダ云々ではなくて、その方のお考えではなく、私がお聴きしたのは仏教で学ぶ「教え」「考え方」)は私の「質問。疑問、求め」があり、それに答えて頂くという有り難いものでした。その最後にはひょっとしたらご自身のお考えがくっ付いていたと思いますが、私がそれを「これは個人的な見解だろう」と理解したらそれで良いんです。そんなことより、スパッと返答頂いたのが非常に気持ち良かった。
1つの体系だった教えというものを信仰するということは私は素晴らしいことではないかと考えています。信徒だという自覚があることに尊敬を抱くんですよね。あれこれごちゃ混ぜしないということを決めていることに対して。
私などは、多種の信仰、多種の宗教、教え、法則と言われるもの、生きるヒント、人さまの体験、当然自分の体験などがごちゃまぜです。非常に都合よく脳内に収まって、矛盾する内容も適材適所で登場します。ご都合主義の最たるものを保持しています。そしてそれを自覚しています。
まさに、生きるリミックス状態だということを。
そして、これはあくまでも、私の脳内のリミックスなんですよ。
そして、私が反応することが多いのは、「良い所どりリミックス」を「教え」として伝えているケースでした。
伝えているご本人の言葉ではなく、つなぎ合わせだったりすると反応していたんですね~
- それじゃあ、良い言葉集のスライドを見せられているだけじゃないか。と。
- 繋がりもストーリーもなくてぶつ切りではないか?と。
- 一つまとまった理念はあるの? と。
- それって辻褄合ってるの? と。
そうです。私はこういったことが好きじゃないな~と反応していたんですね。以前も書いた、私の脳の傾向です。
これに気がつきました。ようやく(笑) 自分が気に入らないと思っていることは自覚していて、多分ただ一人位?に話したことがあるし、私の「気に入らない」という状態を理解して貰えた実感がありましたが、上でご紹介した小説を読んだことで繋がったシナプスのおかげで、ようやく文章に登場させられるほど整理出来ました。
もう一段階深く自分を理解できました。
で、もっと最終的には
- このリミックス良いでしょ?とまるで「正当な教え」のように伝えられることに反応している。と。
- リミックスなら自分でやります。
- それは教えではなくて、あなたの「お気に入り」ですよね? と思っていたんだな~と。
良いんですよ。
100人居たら、100人のリミックスがあるんです。リミックスという価値観が。
それに私が反応していただけなんですね。
アホですが、こういったアホみたいなことになかなか気が付けないんですわ(笑)
だてに「良い言葉」なだけに。
「正論」風なだけに。
間違ってないし。
そう、こういう自分の反応点に気がつきまして、お陰様で今はもう反応しなくなりましたわ。
一応「私の考えだけど」と伝えているつもりだとしても結局は同じことを私もやっているのはもちろん、受容するってこれもそうすれば良いんじゃん。と気がつきました。
「リミックス」を教えのように伝えられても、その方の、今の1つのリミックスとして認知したらいいんじゃん。と。
それを勝手に、あれは私には心地よくない。と反応する必要もない。選択しなきゃいいだけの話ですよ。
ということで、
アホみたいな灯台下暗しでした。
リミックスに弊害があると反応したその背景
私が、リミックスを「教え」のように伝えることに弊害があると反応したその背景があります。
それは、昔私が勝手に、自分で考えた修行もどきを行ったからだと思う。あちこちの宗教の良い所どりしてもそこには一貫した思想というか、理念というかが無いんですよね。
ですから、どん詰まりが来た。
迷宮の中のどん詰まり。
再度、放浪すらもできないどん詰まり。
逃げ場なし。
これはかなりシンドイ。
生命の危機が訪れましたよ。崩壊というようなことに限りなく近づいた期間でした。(いや、あの時崩壊したのかもしれないな)
それは、他人の一貫していない教えを取り込んだときに、それにより精神的な危機がを引き起こす「脳のタイプ」があるという実体験でした。
おそらく当時は、自分の好みではない「良かれと言われている教え」(多種の信仰があり、多種の宗教があり、教えがあり、法則と言われるものがり、生きるヒントがあり、人さまの体験があり、当然自分の体験もある。)すらもリミックスして整合性のようなものが自分の中でとりたかったんでしょうね。
そんなこと無理ですよ。
今ならわかる。無理だ。
子供の頃から「それってホント?」と思う癖のある私にもこの出来事は起きた。
脳や思考が硬いから、全てを同次元で処理しようとしたんでしょうね。
または、その時まで私はそういう脳の癖を持っていたとも考えていて、それが崩壊したから、生き易い脳へ再構築されたという「神経の可塑性」が最高ラッキーに働いた。生命の危機的凶事が、その後の最高ラッキー 吉事へチェンジ。
ですから、経験的に、「脳だけ」「心だけ」ではなくて、「教えだけ」でも、「精神論だけ」でも無いという感覚が沁みついています。
良い言葉、良い教えが必ずしも健康に直結しないことがある。
ですから、リミックスには弊害はあると思う。受け手の脳のタイプによるとも思う。
一貫した理念のある教えも同じ。それも弊害を起こすことがある。受け手の脳のタイプによるとも思う。
なんと、なんと、予想外に長文になったので、いきなりですが今回はこれで終わります。
今日もちょっと長めでしたね。