〇〇の為という尽くし型コントロールをする人、コントロールされる人
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人の為、家族の為、子供の為、パートナーの為という尽くし型支配と支配される「共依存」
以前、他のコラムでもご紹介した書籍に
「支配されちゃう人たち 親や上司の否定的な暗示から解放される超簡単テクニック」があります。
この著者の他の本にも度々「支配」と表現がされるのですが、私は最初この言葉の連呼を読むのが非常にストレスでした。(今は大丈夫で、書いてあることに興味が持てるようになったら抵抗が無くなりました)
ですから、この先はコントロールという言葉を主に使っていきます。
では書き進めていきます。
実は子供の頃から「良妻賢母」というものに違和感がありましたが、ウチの母は良妻賢母からは程遠く子供心に「他の家のお母さんのように普通になって欲しい」と思いました。
良妻賢母には違和感を感じるものの、自分はそれを求めているという矛盾がありました。
ここが成長期のジレンマなんですね。
なぜか幼少期より「良妻賢母」という実態のないものに影響を受けすぎる「常識」のようなものには納得がいかないけれど、さてでは自分は世話を焼いてもらわないと生活できない子供であるというジレンマがあったのです。
そもそも「良妻賢母」という常識を絶対正義として押し付けられるようなコントロールが嫌でした。このように当時の違和感を今は言語化できますが、子供の頃は「これは好きじゃない」としか認識できなかったわけですが。
その元をたどると「女の子なんだから」という有無も言わせぬ常識が嫌だったんです。私には弟がおりますが「お姉ちゃんだから」という言葉はさほどアレルギーは無かったと今ではそう記憶していますが、父方の祖母が「男の子は大切。」と男兄弟を明らかに猫可愛がりするのに、私には「あんたは女の子だからおとなしくしていればいい」とうるさそうにされたことを覚えています。
つい最近、ウチの母にこの思い出をボヤいたら、母も祖母の家から両親と暮らしている家に帰ってきた当時の私が不満を漏らした事を覚えていて「男の子も女の子も同じ孫なのに、なんてこと言うんだろうね。とあきれていたよ、私も」と言っていました。(が、しかし、母も男兄弟には甘いです。(笑))
ですから、常識みたいにいろいろ言われても(それってホントなの?)という自分の周辺におきる出来事を鵜呑みにしない習慣は子供の頃から育っていましたね。(とはいっても、自分なりの別の常識を創り上げていたりして、結局は矛盾していたことに後から気がつきました)
そうすると、先述の母のコントロール行動にも割と早く気がつくようになり、中学生の頃には「社会に出たら家を出て一人暮らしをしよう」と思い、独り暮らしをし始めたらこんな家具を欲しいという夢想もはじめていました。
一見、非常に自立した感覚がありそうに思える私も、子が親を想う気持ちがあり、そして、共依存の芽も育っていました。
やはり家庭環境の影響からは逃れられない
私の場合は、家庭環境で私が親のように家庭のイザコザの中、バランスを取ろうと頑張ってしまいました。
それはアダルトチルドレンという状態を形成していきました。
私が親の代わりに家庭を支えていたことも両親には自覚が無いようですし、書籍で出会った同じようなアダルトチルドレンのとある男性の体験記に書いてあったセリフを読んだときに、私には良い意味での諦めがついた事があります。
それはその男性が放った「あいつらは何も覚えていない」というセリフでした。
当時は分かりませんでしたが、子供の私が求めていたのは「あなたには迷惑かけるね」「ごめんね」「ありがとう」というねぎらいというか、いたわりの言葉や気持ちや態度だったのです。
このようなことは成長期には無自覚でしたが、成人後、自分の心理を深く紐解いいき、自分が何を欲していたのか?をやせ我慢なく見つめた時に「認めてほしかった」「ねぎらって欲しかった」「謝ってほしかった」という事が分かりました。しかし、先述の書籍の中の男性の名セリフにもあるように「両親は覚えていない」のですから、私が欲しかった心配りや言葉は一生貰う事はありません。
実は大人になって両親に当時の苦労を訴えた事がありましたが、肝心の両親はピンとこないばかりか、一生懸命育てた(育児放棄の時期もあったのですが、それは両親は覚えていないのです)娘に何故自分が責められるのか?と被害者然としていました。両親が被害者然とすることで、逆に私が責められるような気持になった出来事はしばらく後を引きました。(当時はまだストレスケアを知りませんでしたから)
寂寥の念。という言葉は合っているかな?
例え両親が覚えて居なくても「覚えていないけれど、そういう事があったのだったらごめんね」という言葉も無し、もちろん態度も無し。私が責め手のようなその態度を見て、一層落ち込んだ出来事でしたが、
覚えていない。とういことはこういう事なんだ。と私はその後その執着を葬ることにしました。
葬るという事は、表面・表層ではなく、心の底からバランス調整を受け入れるという事のような気がします。
もう終わりにする。という気持ちは濃淡、深浅があり、バランス調整してもなかなか変化が見られない場合は、
- まだそこと本当の意味で向き合う準備が整っていないこともあるし、
- 心の奥底で「許さない」と決めていることもあるし、
- 自分の苦しむ姿を(たとえその相手が目の前に居なくても)相手を責める道具に使うという潜在意識も関係する場合がありますが
本当に終わらせる。と決意することが表面ではなく、心の底からバランス調整を受け入れるという事のような気がします。
やはり家庭環境の影響からは逃れられないけれど、自分の状態に気がついて、変わろうと思えば変わることが出来ます。
ただ漫然とバランス調整をするより、一層良いのは「決意」をしてバランス調整をすることだろうと今は思っています。
なにを決意するのかというと、「変わる」という事です。変化を受け入れるという事でしょう。
共依存は環境が育てる
私は知識上はすこしマセていましたが、やはり心が育つ時の環境の影響は受けました。
しかし、自分の置かれている状況が「良くない」という認識はあり、だからこそ精神力で、修行僧のようにして性格を理想のものに創り上げようと返って後々こじれてくる努力にいそしんだのですが、
結局それがこじれて心体に大きなダメージを受けたおかげで、『自分も「共依存」になっているんだ』と自覚することに繋がりましたし、考え方や行動の軌道修正をスタートするチャンスになりました。軌道修正をスタートしてもその後も数回共依存によるダメージを自覚し、何度も繰り返す自分がほとほと嫌になり、もう本当にこれとは手を切る。やめるんだ。と先延ばしにしていた行動変容も本格化したわけです。
そうです。環境によって共依存にはなるのですが、今のその状態から脱出して軌道修正することがあなたにもできるんです。
1つ2つの行動変容ではないので、根気のいる作業だし、練習量、トライ&エラーの回数も多いし、周囲から理解が得られないこともあるけれど、それでも自分の人生を生きるという事を決めたらやる価値はあると思っています。
分かりやすい優しさ。というものは、共依存を支えるイネ―ブリング(enabling)になることもあります。
イネ―ブリング(enabling)も一種のコントロールです。
私が イネ―ブリング(enabling) をしない時に、「厳しい」とか「優しくない」「冷たい」と思われることも言われることもありますが、おそらく私はそう捉える方よりは共依存を理解していると思うようになりました。
共依存はそれほど深いものだろうと思っています。
ですから、私は自分の経験が宝物だと思えるようになりました。
尽くす。ことが余りに美しく変換されることが多いのですが、私が実際に感じる事は
- 尽くす自分を誇りに思う場合は、大抵コントロール型です。そのコントロールは徐々に勢力が増す傾向があるので、それを実際に目にする機会があると、私には全く無関係なケースでも「これは苦しいな」と感じる事があります。
- パートナーなどの成功は自分のおかげだという称賛が欲しい。そうなることでパートナーを支配下に置きたい。
- そして、自分がコントロールしたい相手に、いつの間にか逆にコントロールされ始めていて、それを安心と認識するケースがあること。
- コントロールしないと相手が自分の元からいなくなってしまう。という恐れが根底にあること。
- 自分が欲しい答えを相手に言わせることもコントロール。相談するという形式を取るが、自分の聞きたい言葉(返事・回答)を言わせて、それに従うという保険が欲しい。
ですから、兎に角、自分の深い場所の心に気がつく事と、そのセッションを受けること。セルフケアも併用する事が肝要です。
共依存の場合は、尽くしていてもそれは自分の為の保険
自分の恐れを埋めたいがゆえの共依存となるならば、尽くしていても、良妻賢母でも
それは自分を守るための保険になります。
本来の意味の良妻賢母は、自分の保険ではないだろうし、それは家族とはいえ本人以外が「要求」するのも多分違うのでしょう。
完璧な妻、完璧な母を求めるのではなく、もっとおおらかな意味ではないだろうか?と思う時があるんですね。
ステレオタイプのそれらのイメージは、自分が妻として、母として、どうしたら良いのか考えられないから「常識」という他人の言う事に従っておくと安心だという結果になってないかな? と思う時があります。
そこには相手や家族の気持ちに焦点を当てるというより、世間一般に焦点が当たっているようでもありませんか?
ご自分の家庭の運営は、構成メンバー次第で決めていけば良いのではないでしょうか?
私は冒頭に書いたように、子供の頃から自分が感じている違和感が本当はどこにあるのか?を少しずつ理解してきました。
ですから、後半に書いたことも 若い頃はやはり全容が見えませんでしたし、それは違うでしょ!と思う事も実際に自分がやりました。
生き方が下手だな。と今まで何度思った事が分かりません。
年齢もあるけれど、ストレスのバランス調整を続けてきて本当に良かった。
「心と体」「心の内外」「思考と感情」など多くのバランスが取れてきて、私という全体の足並みがそろってきた感覚があるのです。
これが今一時、しばらくの期間だけだとしても、この「私の全体が足並みが揃っている」という感覚を味わえることはとても有り難いことだと思っています。
それは幼少の頃にも感じていた「どこかチグハグ」という違和感が今はないからです。
生活のすべてが理想通りとは言いにくいですが、それでも私という個体の「充実感」だけはある。
私は心体カウンセリング™ を通じて、この感覚をあなたに感じて欲しいのです。
「満ちてくる」「満ちている」という感覚は想像やなんとなくふんわりと感じるものではなく、「しっかり」と感じるものだろうと思っています。
そんなことが自分の人生に起こるのか? というあなたのご質問には「そこに向けてトライをはじめる事はその確率を上げる」とお伝えします。
共依存は長い期間かかって学習した思考、行動形式です。
それを生まれ直したつもりで、自分の価値観を1つ1つ検証し、行動も変えていく事が必要になりますが、もうすでに大人なのであなたが思っているより早く多くの事が良い意味で変わっていきます。
共依存の本を読んだだけでは変わりません。しかし、知識を得ることは有用です。
共依存を言葉だけでバランス調整するだけでも変わりません。しかしバランス調整を続けることは有用です。
共依存とサヨナラするのには行動が必要です。行動変容が大切です。それを続けると違う世界が見えてきます。
私がサポ―トしますので、どうぞ心体カウンセリング™ を利用してください。
おすすめの書籍
上の書籍は、私がずっと感じていた「良妻賢母」という常識の違和感について、「この方(著者)もそうだったのね!」と思った書籍です。
上の本は、演習などもあります。どちらの本も真摯に「共依存症」について理解しようと思う方にオススメします。
また、この中に「感情は外に出されるまで私たちの中に留まって荒れ狂う」とあります。外に出すというのはそれについて嫌になるまで話すことではない。と著者は書いていました。
私はこの著者に実際にお会いして是非心体カウンセリング™ を体験していただけたらと心の底から思いました。体の外に出すのに最適な方法があるんです! と知って頂きたいからです。 🙂
誰かに(自分も含めて)レッテルを貼るためだけに読むのはオススメしませんが、誰か(自分も含めて)を理解するために読むのはオススメしたいです。
他の これは良いよ! という書籍は、以前に書いた「共依存・・・依存症や中毒の根底にあるもの」というコラムでご紹介していますので、合わせて読んでみて欲しいです。
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