幸福の呪縛
クライエントさんや受講生さんと、対話をします。
クライエントさんのお話をお聞きする量も、それが目的なので優先ですが、私が体験談をお話することもあります。
そして、この幸福論について書きますよと前回の記事で予告していますが、ちょうど、本当にちょうど「じぶんでチャクラを整えたい!」講座の受講生さんと講座の休憩時間にユンタクしていたら「幸福論」の話になりました。私が口火を切ったわけではないので正にシンクロニシティ。ユング心理学の「布置(ふち)」です。
受講生さんと二人で、そうだそうだ!と盛り上がりまして、今日の記事はそんな楽しかった会話のエッセンスも含めながら筆をすすめて行きたいと思っています。
Contents
幸福のまぼろし
まぼろしと言いきってしまうのもなんですが、私も知らなかった「幸福論」の変容についてまずは書いていきます。
そもそも、幸福とは運がよければ手に入るという偶然性をはらんでいるという前提があったそうです。
それと似ているのが、
徳を積むような行為をする/その行為に「人徳」というリターンがついてくるという確約はなくても、道徳心や信念としてそのような行為をする。
当人にラッキーがある/ヒトから「徳を積んでいるからだ」と因果的結論を語られる/本人が「ちょっと報われたかな」と思う。
こんなことが似ているような気がします。
そして時代は変わり、ハウツー思考の時代がやってまいりました。
自分の為に、幸運をハナから期待して徳になるだろうと思う事をする。なせなら、ハウツーの法則本に書いているから。
このハウツーの考え方と、書籍で紹介されていた、
19世紀までのヨーロッパの道徳論は全部幸福がベース。人は幸福になるために生きる。幸福だけは誰も否定できない最高の善。
それに至るためにはどうしたらいいのか? と幸福をベースにしたものだった。ー臨床とことば 心理学と哲学のあわいに探る臨床の知より引用
の違いに注目してみました。
確かにこの2つを似ていると思おうと思えばそう読める。
違いを考えようとすると、ハウツー思考の土台には19世紀までのヨーロッパの道徳論にあるような「そこには道徳がついてまわるよ。」がない。ハウツーの手法だけはある。
ハウツーを信じるのも信念。
道徳と共に幸福を考えるもの信念。
ですから、信念って言葉は共通語かも知れないけど、内容は全く違ってきます。
ハウツーよりも、道徳論のベースとなる幸福について行動しようとすると、そこにはどうしても「人間脳・社会脳をつかう」って行為が必要になってくるんじゃないかと考えました。「人間脳・社会脳」という言い方以外にも表現はあるでしょうね。例えば・・・・う~~~~んと・・・・「生きていく時の哲学」という表現も当てはまるかな。
ある種、大人脳とも言えそうです。
わかりやすいものは社会への浸透が速いので、ハウツーの方が私たちの思考に影響を与えやすくて浸透するんですよね。
大人と子供がボーダーレス化しているそうなので、一層ハウツー的思考が重宝されるでしょうし、そういう時代だと言えばそうだし。
幸福とは運がよければ手に入るという偶然性をはらんでいるなんていう、こんな時間がかかることは待てないわけです。確実性を求めたいわけですね。
となると、幸福の法則、因果関係を知ったり、使いこなしたら楽に手に入るじゃん。それ教えてよ。となるのが人の性です。
そのためにも、手に入りやすい自分でいる必要がある。
という体制づくりについて以前トンチンカンなことをしておりました。わたくし。
良い子、完璧な自分でいたら幸福になれる
良い子や、完璧な自分、私の場合は理想の自分になったらラッキーや幸福が手元に届きやすいと どこかで考えていた。
家庭環境は自分の理想とはかけ離れているからこそ、私が完璧になって、この「どうしてこんなことになってるの?」と納得できない環境の不協和音、バグを解消しようとしていたふしがある。
下手したら「どうしてこんなことになってるの?」にはご先祖さんを随分遡る必要のあるような事まで、遺伝子情報の元をたどるような類のことまで含まれていたんだろうという事を受講生さんと一緒にセルフケア講座(「じぶんでチャクラを整えたい!」)をしている最中に思い当たりましたよ。(笑)
「あぁ あの頃の私は随分と壮大なものを背負わなきゃって思っていたんだな~~。」「随分壮大な救出計画を背負ったつもりでいたんだな~~」って。今では「ウケル~~~。(笑)」という程度の勘違いですが、当時は真剣、大真面目に幸福という幻を追っかけておりました。
幸福は創りだすんだ! と。
この幸福を創りだすんだ! はハウツーにのっとった「善行のつもり行動」や思考と目くそ鼻くそです。
リターンしか考えてない。
相手をよく見ていない。
自分のことだけ考えてる。
私が我慢すれば、私が良い子なら、私が完璧なら手に入るはずのナニカを想定していたわけですから、ナニカを得たい、欲しいという欲求を隠しての「善行のつもり行動」ということに近いだろうし、そもそも自分の欲求に気がついていない時の方が多いと思います。
誰かのために、良かれと思っていたつもりが、自分の為でしかなかった。って気がついた時に、「私ってそんなちっぽけな人間だったの?」と少々衝撃が走りますけれど、大丈夫です。セルフケアの方法を学びに来てください。
一生懸命だった。それが勘違いだった。そんなこと誰にでも、いくらでもある人間の特性ですから。
良いとか悪いとかではないです。1つの考え方ですからね。
しかし、おそらく今の自分の実感としてはこの感性の世界には生きていないかな~~~。
こりゃ違うわ。とくっきりわかったから。全精力を尽くしていたけれど、全く違っている大勘違いだったという衝撃ももう笑い話にしかなりません。
そう、受講生さんも同じような体験をされたそうで、二人で「かなり頑張ったけど、違ったよね~~~」とお互い自分の健闘をねぎらいつつ、笑いました。
受講生さんの名セリフをどうしてもご紹介したい。それは
私は完璧になって、誰に見せたかったのだろうか?
というセリフです。
素敵な言葉ですね(^^)
今この文章を読んで頂いてるあなたは思い当たることはありますか?
もう1つこの時の受講生さんの名セリフをご紹介します
私は神にでもなりたかったのだろうか?
わたくしも同じ気持ちになったことがあるので、このセリフを聞いた時に「わかる~~~(^^)」と笑って同意しておりました。
私は幸福です! と対外的に言う為の幸福
外へ向かって、「私は幸福です!」と主張したいという心理。
そのために「幸福」を裏付けするアイテムが必要でしょうか?
それは、住まい? 家族? 仕事? 健康? 友人の数? 立場? 役職?
アイテムを揃えて、幸福であらねばならないのは、ゆくゆく無理が生じてくるポジティブシンキングと似ていますね。
現実をそのまま見るのでなくて、見たい物だけ見るというようなやり方でしょうか。
しっかり凹んだり、落ち込んだり、悲しんだりした方が良いことも、「幸福だと言っていた方が良い」みたいな思考でふわふわと包んで感じないようにしてしまうこともあるでしょうしね。
私も、お陰様で幸せです。と思っておりますが、こういうことを言わない方が良いとも、言った方が良いとも思っておらず、現在の状況報告な感じです。この先は知りませんしわかりません。誰に言わなくても独りで「あらまぁ 生きてるとこんな感覚を味わえる日が来たのね」とお陰様で思う程度です。
対外的にどうとかをやめているから、体内に幸福感を感じることができるのかも知れないですね。
こちらの書籍に書かれていた例は
幸福な家庭を作る。というイメージでやっていたら実はだんだん幸福からとおざかっていく。ー臨床とことばより引用
でした。
意識が外に向いているのか、内に向いているのか。
その幸せな家庭像が「型」なのか、家族に合わせてなのか。
なんてことが関わっているのでしょう。
こういった「幸福」に縛られる余りに。という人間模様のドラマや映画も多いですが
夜行観覧車というドラマがありました。原作は読んでいませんが、外に見せるための幸福についてわかりやすいドラマでした。
登場人物は自分の「良かれ」を行っている。それが希望とは違う方向へ展開してしまう。
誰もふざけてない。
タイトル 「夜行観覧車 」DVD-BOX
見逃せない「躁転」
ストレスを抱えていた、うつ状態だった、悩んでいた。
そしてある日
嘘のように気分がよくなって元気になった。
こんな時に「悩みの暗黒時代は終わった」と思うのが人情。
しかし「躁転」という状態もあるんです。
寝なくても大丈夫になったり、尋常じゃないパワーが湧いてきたり。
脳内が「ハイ high」になる物質が過剰に分泌されているという、これはこれで疾患の症状という可能性もあります。
多幸感や、全能感なども伴う事が多いようです。
しかし、躁状態に転じているだけなので、永年的に持続するその方本来の資質とは異なります。
精神的に落ち込んでいる方が躁転して、恐怖が麻痺して、自分の身を危険にさらしてしまうという事もあり、
「元気になったから良いじゃん」では済まないこともあるんですね。
しかし、躁に転じている期間は幸せを感じることも多いようですから、「幸福捕まえた!」という実感も伴いそうです。
「好転反応」という解釈やカウンセラー側の「わたしの腕が良いからだ」という勘違いは要注意ですね。
回復には時間がかかるし、回復の段階もありますし、焦りはあまり良いエッセンスではないようです。
わたしの体験
わたしも深い落ち込みから復活する道筋の途中に、当時は言葉を知らなかった「躁転」を体験してたんだろうという自覚があります。
私の場合、なんだ?この感覚・・・・と変化を感じつつ、一気にそちらに傾倒していかなかったんですよね。
「これは普通の状態じゃないな。」と内側前頭前皮質が申すわけです。(笑)
非常にシンドイ期間でしたが、その中でも「(多分)躁転」しちゃった自分の状態を観察しつつ、青色吐息で生活していました。妙に元気で頭もひらめきみたいなものが湧くんですが、自分の内部が疲弊しているのがよく感じられていました。
ですから、まだケアを続けた方が良い方が、「良くなった」「覚醒した」とケアをやめて、不思議な事を伝える側になる気持ちもわかる。
「覚醒して能力を得た」「能力が覚醒した」と感じるもの。
それがその先どうなるのかは、ドキュメンタリーのように追跡しないと私にもわかりませんが、
内側前頭前皮質の働きがある程度強化されていないと、一気に傾倒して、また別の厄介な領域に突き進むことがあります。
誰に教わったわけではないけれど、当時の私は「これはちょっと注意しておく必要があるな。異常事態だな。」という姿勢でした。これが内側前頭前皮質のサポートを呼び起こす本能のチカラなのかもしれません。
誰かの考えの刷り込み
最後に、幸福論とは例えが異なりますが、
私たちは「誰かが言い出したことに気がつかないうちに乗っかっている」もんです。
それが誰かの「幸福論」でしかない。なんてことにも気がつきにくいものだし、次の手としては「自分の幸福が大切だ」という風潮になれば自分の幸福を探し出そうと努力するわけです。
幸福とは運がよければ手に入るという偶然性をはらんでいるということでは満足したくないという願望?希望?
こんなことを最後に書いているのは、私自身のこの体験の際に感じたことに由来します。
↑の記事のような体験をして、↑のここには書かずに「こすも」というサイトの中のこの記事に書いたのですが
https://cosmos358.amebaownd.com/posts/4414217
「時間も自由になるんじゃない?」
「時間からも自由になれるんじゃない?」
「望めばなんだか 時間についての概念や体感も変えられそう。扱えそう」と頭に浮かんだ一瞬があったんです。ーサイト「こすも」から抜粋
時間は誰にでも平等で、そこから自由にはなれない。という解説はもちろん知っています。
なんなら私も発言したことがあるけれど上記のようなことが ふと 頭に浮かんだ時に同時に「あぁ これはある日誰かが『時間だけは平等だ。これは法則だ』と言い出したことだったんだな」とも思ったんです。考えたのではなくて、体感覚として(思考では考えたことが無かった事を)感じたわけです。
その誰かが言い出した「法則のようなこと」の枠から私が ピョン! と出た瞬間だったと思います。
正解についてはしりませんが、この枠から ピョン!とね。(笑)
そしてこんなお話もリアル マスターヨーダと私が勝手にお呼びしている方に伝えたら、「なるほど~~~」という解説を頂戴しました。
ちゃんと理解できているかわからないけど、「時間というものに対する観念」という方向性の解説でした。わかりやすかったのでサラッとお聞きしていましたが、あの解説が量子力学的?なのか、信仰的?なのかは私にはわかりませんけれども、『「時間が一定」ということはおそらく誰かの言いだした説で、時間はそういう本質のものじゃない』という私の体感覚を後押しする言葉だったと記憶しています。
時間は平等で一定だという説を世間に広げたのは有名な物理学者かもしれないですね。
学校でも時間は一定という前提で計算しますからね。
こんな風に、幸福じゃないと立派な人間じゃない。幸福じゃないと人間として劣っている。優秀でなくなってしまう。と考えてしまったり、幸福にすがりつきたくなる様な思考や、誰かの価値観、誰かの法則の枠から ピョン! と出てみると世界が広がりますよ。
一度そんな風景も体験してみると面白いです。
枠から出てみて、嫌なら住み慣れた場所へ戻れば良いだけだから。
おススメ
個人セッションもお薦めです。
セルフケアはこちらがお薦めです。
このコラムの参考図書は前回と同じです
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(2018/10/17)
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