人間として大切なものが、損なわれたり、傷ついたり
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人間として大切なものが、損なわれたり、傷ついたり
「こすも」のサイトに、人間の大切なものが損なわれる、傷つくということを書いたあと、
(タイトル「私が心配、危惧したいたことがようやく書けたかな。でも、もうやめます。」https://cosmos358.amebaownd.com/posts/3988307)
手元にずーーーーっとあった未読な本を読み終えましたら
これまた共時性でしょうか?
人間の大切なものが損なわれるというような事がその中にも書いてありました。
(タイトルにAmazonへのリンクが貼ってあります。内容などはそちらで確認いただけます)
元々、村上春樹さんが翻訳されたという本だという情報により購入し、読む本の山の中にずーーーーっとあるけど、後から来た本たちに面白いように抜かれて、「買うんじゃなかったかな」と正直思った時もあった本です。
読んでみたら「なるほど」という感じ。書いたのは村上春樹さんじゃないけど、最後のページまで含めて良かった。
読んでみようと思われた方は、あとがきまできっちり読んで欲しいです。
私には関係のない話ではなくて
この本は、実存した殺人を犯した死刑囚の話ですが、私には関係のない話ではなくて、環境が人に与える影響ということについて書かれています。
これは、殺人を犯した死刑囚以外に、その家族も含め全員に言えます。
この中に、損なわれた度合いが深いと、もう元に戻ることは難しい。という記載がありましたが、これについては私は賛成。
しかし、劣悪な環境でもそれに染まらないという個性もある。
ひねくれバイアス
ひねくれる。ってことは誰でもある。それをずっと続けていると、ひねくれバイアス無しに物事が見られなくなる。
背中を向ける。ってことは誰でもあります。それをずっと続けていると、前向きになるハードルが上がる。
毒を吐く。ってことは誰でもあります。それをずっと続けていると、脳内も毒で満たされる。
こんな姿勢が、格好いいと思う年齢もありますけれど、その先の一生ずっととなると厄介な感じになりませんか??
人生いろいろだな。と思うのもこのような時です。
なにを「大切」に思うのかが各々の人生観・価値観によるのだと考えています。素直な人ほどショックや挫折の影響も受けやすい。
赤ちゃんの時からひねくれバイアスがあるかどうかわかりませんが(生物学的遺伝という意味です)、ほとんどの方のスタートは素直だと思っています。
素直な人が色々な体験をしたうえで、また「素直」という心持ちに返ってくる時には精神力が大切になるという一面もある。
というのは、
さっきのひねくれバイアスを取り除いて世の中を見た時に、また傷つくのが嫌だ。怖い。と思っていると、そのバイアスを手放せなくなっちゃう。
あまり薦めないけれど、それが自分を守る盾になるんですね。
ですから、そんなバイアスを使わなくても大丈夫な出来事や人が居ても、信じようかな。と思った瞬間に、いやいや うっかり手放したら大変だとひねくれバイアスをもっと強く握りしめてしまう。
確かに、ひねくれバイアスを盾にするという体験も人生で必要な時があるとは思います。
そうやって辛い時期をやり過ごすということがある。
ひねくれバイアスを手にした方は、それだけ傷ついたという証拠ではないかと思っています。あなたが悪いんじゃない。誰も悪くなかったということもある。
こんなケースもある。善く思いすぎ。
これは、物事を斜に見るということだけではなくて、目の前の出来事を善い人、善いことと理解し過ぎることも結局は同じだろうと思っています。
自分のやり方、自分の思い込みを手放せないという意味で。
または、強烈なバイアスがあるという点で。
自分と同一の価値観を持った善き人ばかり、だとか、自分に善くしてくれるということをその人のALLだと考えたい。という誇大化に気が付けないのも、それはやっぱり、違いを知る事が怖い、傷つくことだと思っているのかもしれないですね。
人間はそれぞれ違う。
同調願望ばかりでは、大人思考とはちょっと違うでしょうし、そのバイアスは「平」よりはバランスを崩していそうです。
同調することで得られる気がする安心感があることは認めます。自分の思うような、理想の段取り通りにいかないことで傷ついたり、離れてグラグラするなら、それは安心ではなく渇望を一瞬埋めただけのことだったのかもしれないです。
自分を育てるということをしたことが無ければわからない。だからと言って、一生他人やナニカかといった補給先を探し続けるということでは大切なものが損なわれる。
渇望を責めるのではなく、渇望する自分を見つめることがバイアスを一旦手放すことでは無いでしょうか?
何度も同じことがあるなら、それは自分が引き起こしているという可能性を考える
私は何度も体験しないと、自分のバイアスに気が付けないこともあるし、1度で学習することもあります。
何度も何度も体験することで、「あぁ またこのパターンか」と自分の物事のとらえ方の癖に気がつくまでの時間が早くなることもあって、得意分野になったことも多くあった。
見ている事と、その意味が連結したという事かもしれない。
思い込みや、そう思いたいという自分のバイアスを経験値が打ち破った瞬間。これが一つの学習の成果と言えるのかなと思えます。
ひねくれバイアスにより、何度もパターンを繰り返し、苦しいことになっている方は見直してください。
それがハッピーを呼んでいるのなら話は別です。
心は逃げる
心は逃げる。とおっしゃる数名の方を存じ上げています。
おっしゃりたいことはお察し出来る気がする。
行動修正したつもりが、心が逃げたことを自分に言い訳できるような事でしかなかった。ということだって、もう全然珍しくない。
それが人間の心理の作用ですし、そうやって自分を守る癖があるんですよね。
責めても治るわけじゃない。治るかどうかも解らない、治したいかどうかもわからない。
と、考えている私には、こういう方法が良いんじゃないかな?と思っている方法があります。
良きにつけ、悪しきにつけ、ひねくれバイアスを外す恐怖をケアする
その昔、あなたが傷ついたことを徹底的に、それこそ目標設定をしてケアする。
中途半端ではなく、徹底的にやってみる。
自分では見えない部分が沢山あるので、これぞという深い傷の課題はセッション(カウンセリング、セラピー)を受ける。
やっぱりこれは大切。話して、聴いてもらい、質問してもらう。
アドバイスをもらうのではなくて、質問してもらうと良いです。
浅いものは自分でも良いけど、深いものは助けを借りる事がやはり良い。その良さを知らないのは勿体ないです。
ひねくれバイアスは、意識しても、無意識でも長くそれをやっているほど体に沁み込んでいます。骨の髄までという言葉もあるけど、おそらく骨の髄までいっちゃうと回復が厳しい。
そもそも、ケアしようという意識が湧かない。
なにやったって無駄さ。面倒だよ。ということを言うだけじゃなく骨の髄まで届いちゃってると厳しいですね。 私は大丈夫。も怪しい言葉です。
素直になってどんな良いことがあるんだよ! というご意見自体、私のお伝えしたい内容とずれています。
ひねくれバイアスは、智慧にも変わる宝物ですとお伝えしたい。
子供の素直と大人の素直はちょっと違うんじゃないかな?と考えているので、素直だけを推奨する気はないんです。
子どもの素直さは、自分というものがないと精神的土台が育ちにくい。大人の素直さは、過剰なバイアスがなく、見聞きしたものそのままを受け止められる。
こんな違いがあるようにも思います。
昔閉めた扉をまた開くことへの恐怖。それをケアする。
出来事にしても、誰かの事にしても、もう観たくない、思い出したくない。というものを改めて思い出すことには不快感が伴います。
またアレを感じるわけですから。
その時のざわめく、苦しさを感じるあなたの心体のサポートをする。
お好きな方法でどうぞ。
わたくしも、いろいろな方法をお伝えしていますが、あなたがずっとケアに使ってこられた手法があるのでしたらそれで良いかと存じます。
ちなみに私が現在一番お薦めするのはこのセルフケアです。
昔閉めた扉を開けようか、やっぱりやめておこうか。という迷いも恐怖ならばケアする。
扉から観たくなかったものが飛び出てきたときに、大きく揺れ動く感情をケアする。
もう昔のことだから、それはその時の感じ方なんだよ、今は成長してもう少し別の視点ももてるんだよ、と安心するためにケアする。
そして、ゆっくりと出来事を受容していく。
受容する時にも心のケアはあなたのサポートします。
受容は決して怖くありません。あなたを強くします。
健康と笑い声をあなたの人生に増やします。
心の輝きを忘れないで。
心の輝きを思い出して。
(2018/04/25)