我慢が苦しい時に読んでください。諦めるの本来の意味とは?

我慢についてコラムを書く書くと宣言して、書かないままだと書く書く詐欺になりそうで、気になっていました。

記事を待っていて下さっていた方がいらっしゃったら「ありがとうございます。」

そして、2018年より前のコラムの多くは、初回投稿の日付が記されておらず、私の考え方の変化や進化が解りずらくなりました。なので、今後は(2018年以降)は可能な限り初回投稿の日を文末に入れていく所存です。

と、書きつつ、すでに2つばかり日付が入っていないので訂正しました(汗)

さて本題に入りましょう。

あなたはどうして我慢をしているのか?

必死の思いで我慢に我慢を重ねている真っ最中、または我慢を続けていたが途中で出来なくなって挫折感を感じている方は

「あなたはどうして我慢をしているの?」とあっけらかんと言われたら腹が立つかもしれないですね。

自分の努力が否定されたような気持になるのは寂しいです。

私の苦労も知らずに、いとも簡単にそんなことを言われたら「あなたに何がわかるのよ」と言いたくもなる。

我慢するしかなかったんだよ! と反発したくなることもある。

責任があるんだよ! こっちは大人としての責任を果たしているんだよ!と思う事もある。

 

それを選んでいるのはあなたと言われて救われない

ましてや、辛くて書籍や他人に助けを求めたら「それを選んでいるのはあなた」「全ては自分で選んでる」などと、この辛さの責任が自分にあるように言われては、ますます心外です。

 

どういうことよ?

そんな木で鼻をくくったようなことを言われても何ひとつ納得できない。

「私にわかるように説明してよ」という気持ち。

そう、私達人間は、わからないことが嫌です。

ましてや、相手が解ってて(と、感じるだけでも)、周りも解ってて(と、感じるだけでも)、自分だけ解らないということはおおむね嫌いです。

 

選択肢が3つあるとします。

  • 知ろうとするか?
  • 知らなくていい。と突っぱねるか
  • 何もしないか。

 

この先は、我慢が苦しくて、解決策があるのなら、一応読んでみようか。と思う方へ思いをこめて書き進めます。

1人目の例

私の例ですが、おそらく我慢が好きな方にはちょっと理解して頂けるのではないかと思いますので書きます。

 

世の中には「修行好き」というグループがあります。

私などは、修行が精神性を磨くのだ。などと考えて、もし、誰かに、「我慢なんて無駄だよ」と言われても、

そんなことを言ってるから精神性が磨かれないのだ。などと相手にもしていなかったくちです。

我慢は美徳なんだ。

これは修行好きには錦の御旗。燦然と輝く言葉です。

 

ですから、しんどそうなことが起きると、これは私にしか対応できない、私以外の人には苦痛でしかない試されの場なんだ。逃げてはダメなんだ。と。

 

しかし、「なんで私ばっかり」と寂しい思いも沢山しました。

寂しくなったときに自分に言うんです。「やらないと後悔するかもしれないから」とか「いつかは報われるんだ」と。

 

ご立派です。

大した器もないのに頑張っておりました。

おかげで、確かにそういう器は大きくなって、会社などに勤めると、沢山の量を処理できる人にはなりました。後輩には休憩時間はたっぷりとって貰って、残業もしないようにして、自分は休憩しないし残業もやる。

 

立派ですが、やっぱりバランスはよろしくないし、

そもそも立派かどうかも今は「?」です。ひょっとしたら後輩は私がやらない分、もっと能力を発揮したのかも知れない。適正な責任感を感じたかもしれない。

 

偏っているんですね。

 

努力は美徳。という言葉を鵜呑みにし過ぎて、ケースバイケースということが見えてない。

このような思考は 0が100か? という極端な思考と行動です。

 

はるか以前、アメブロにも書いたのですが、

物語の中の馬と一緒です。「荷物が重くて大変だね」と言われた馬が「重いってナニ?」と答えたように

私の場合は「我慢し過ぎだよ」と言われても「し過ぎってなに?」という視野狭窄。

 

「遮眼革」ってご存知ですか? 競馬馬によそが見えずレースに集中させるための目の前しか見えない囲いです。

我慢が苦しい場合は、こんな「それしか見えない状態」に陥っている。

それが厄介なのは、前述の私のように「良かれ」と思っているとき。

 

その「この我慢が自分に利益を与えてくれる。」という思いが、自覚していても無自覚でも価値観の中にあると、気がつきにくいです。

 

例えば

  • 私が我慢したら彼はそのうち分かってくれる
  • 私が我慢したら家系が守られる
  • 私が我慢したら家族は幸せ
  • 私が我慢したらチームの皆が楽ちん

というような例があるでしょうか?

 

そう思っている事はその通り受け止めます。

で、あなたがそれで得ているものは何ですか?

  • ありがとうという感謝?
  • やっぱり私が居ないと。という自信?
  • 自分はここで役に立っているという居場所?
  • 安心感?

それでバランスが取れているのでしたら、苦しいということには繋がりにくい。

イキイキ! 元気! みたくなっていても不思議じゃない。なのに、なんだか苦しいし体調も不調ならば、バランスがちょっと崩れていませんか?

 

私の場合は、当時は修行能力(=我慢能力でしたが)がそこそこありましたから、耐えて耐えて・・・・・

そんなことしているうちに心のダムの壁に小さな穴が開き、どんどん亀裂が広がり、ダウンしました。

動いてはいますが、抜け殻みたいになりました。

息を吸って、吐く。もうそれだけで勘弁してください。疲れています。というほど疲労困憊しました。

 

弱音が吐けないから、余計に被害がありましたね。

 

真面目な修行者、ガックリと膝をつき、倒れました。

 

倒れて良かったんですよ。自分の限界を知ることも人生は大切な時があります。

修行思想の方は、限界など無い!人間の能力は無制限だ! という言葉が好きかもしれませんが、

だから益々こじれていくという事も考慮に入れておかれるといいです。

倒れてからわかるという事もあるし、自分が絶不調を迎えても限界はない!という方もいらっしゃいます。

現実認知ということが苦手ということもある。

 

人間には無限の能力がある。ではなく、自分には無限の能力があると思いたい。ということと、

今現在の限界ということを分けて考えられないのかもしれないですね。

ということは 0か100か という考え方なのだろうと思います。

 

体調が悪いのは、益々自体が悪化していくと自覚できます。

しかし、我慢をしていることはなかなか気付けない。

私の場合は、我慢がもうできなくなるという事態を迎えて、良かったです。そうすると、カチカチに固まっていた思考が緩んでくる。しつこくこだわっていたマイルールを諦める事にしました。(あきらめるについては後述あり)

理由が出来ましたよね「また無理な我慢をすると、ああなるからやめておこう」という。

 

こんな悲しい方向からの理由付けでも良いんです。

ようやく「我慢を選ばない」という選択肢に気がつけたし、そっちは決して堕落の道では無かったということにも気が付けました。

我慢ができない。自分の我慢は間違っていたと気がつくことは「負け」ではありません。それを認めたら負けではないか?という不安は実は要りませんでした。

自分との闘いという言葉がありますが、負けたって良いんです。もともと私のやっていたこと(修行思想)には勝ち負けがあるんだろうか? それは本当でしょうか?

自分を知る。ということは、決して負けではありません。素晴らしいことです。

 

2人目の場合

具体例は書けませんので、家庭があり、子供がいる。という設定をします。

家庭が幸せではない。といことはあります。

その時に、幸せでは無いけれど、やはり家族で居ようということを選ぶが、やはり我慢はする。

我慢が辛い。

そうなると逃避をすることがあります。

 

逃避の現れとして

  • アルコール
  • ギャンブル
  • 浮気
  • 家出・家に寄り付かない・帰ってこない

ということを挙げてみました。

 

逃避というのは、一度すると全く元どおりと同じ我慢はできないものです。

  • 我慢できる時間が短くなったり、
  • 他の物へ逃げる時間が長くなったり
  • 物理的な距離感や
  • 元通りの我慢をしようとすると肉体的な症状が現れる

それでも、逃避をしながらも、やはり我慢をする。

 

我慢ってなんだろう?と思います。

美徳か?と。

逃避をして自分をある種守るようなことが必要な「我慢」って本末転倒なの?

本末ってあるの? と私もいろいろ考えました。

 

それは、最後にそれを自分がどう収めるのか? というだけかもしれないですね。

  • この人生、我慢をしてよかった。とするのか
  • この人生、我慢をしなければよかった と思うのか。

 

その際に、なにをどう感じるのかはご本人だけがわかることです。

 

そう思うと、世間体を過剰に気にした我慢ってなんでしょうね?

それだけが自分の人生のモノサシだということはなんだろうか? と私は考えたことがあります。

やはり価値観は人それぞれです。

ストレス性の体調不良が続いても、結果的に「我慢」を良かれと選択している訳なので。

 

価値観を変える・変わるということは、人によっては非常に難しいのかもしれないですね。

それを責めるのではなく、尊重するという選択肢もあるということです。

あきらめるって、私は好き。

諦めるってなんだか「負け」みたいなニュアンスで伝わりつつありますね。

しかし、仏教や漢語の「真理」「真実」を「つまびらかにする」「明らかにする」という事から派生しているそうです。

ですから、どんどん諦めていきますと、バランスの崩れた我慢などは「あれ? なんでこんなことしてるんだ?」と気がついてくるわけですね。

 

私はこの本来の言語を知る前から「あきらめることも大切だと思う」と会話にしていました。願望にしがみつく良さと「諦める良さ」があると。

しがみつくという事はやっぱりストレス・疲労が蓄積するので、いっその事諦めてみるのも一計だと。

 

まさに、明らかに見るということですね。

そうなってくると、いかに目の前の景色に意味づけして、理由付けしているのかがわかってきます。

それは、自分にも同じこと。

 

周りも自分も一緒です。

感じているあなたという個体があるのなら、そういうことになるでしょう。

 

心身一如の状態でバランスが取れている時には、理由なんていらないことも多いような気がします。

 

「虚心坦懐」という言葉の意味を一度調べてみてください。

こんな状態をちょっと目指してみても良いのではないかと思ったりしたんです。

これは修行思想とは方向性が違うような気がいたしますが。

 

我慢して身を削った私を認めて欲しい

認めて下さる方は、あなたが身を削らなくても条件なく認めてくれます。

認めてくれない方は、あなたがこれ見よがしに、あてつけるように我慢をしたとしても認めてくれません。

 

すごいね~ と言われても、満足しない人もいます。

感謝しているということを言葉と行動で示されても、受け取らない方もいます。

 

我慢し過ぎると、何かが閉じてしまうことが多いです。

自分だけの世界のことだけになってしまう。

ですから、外部からの働きかけはあまり意味がなさない時もあるんですね。

我慢して、石のように固くなってしまうという事があるのかもしれないですね。

 

ダイヤもたった一か所 いとも簡単に割れる場所があると聞きますから、石のようになると、気付きのタイミングもかなり厳選されてきてしまう可能性もありますね。

 

そうなってしまう前だからこそ、今この記事を読んでくださっていると思います。

 

苦しいというはっきりとした自覚は無いけれど、なんだかおかしい。

ヒトからは我慢し過ぎと言われる。という方は一度心体カウンセリング™ を受けにいらしてください。

 

自覚がない時には、ひょっとしたら体のケアを優先にしたほうがいいかもしれないですね。

(2018/03/29)

 

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