他者との「境界線」と「課題の分離」についてー1

自分を知ろうとした時に直面する可能性があること

書籍「嫌われる勇気」的な取り組みをしようとするのも、なかなか難しいと思うと書きました。著者が伝えたい事と、私の理解はどの位離れているのかは計れないが、アドラー心理学を一度通して学ばない限りは一致することはないと思う。

しかし、私が自分で意識して行った事と似ている箇所はあると思えたのでコラムを書いています。今日は「無理しなくて良いと思う」その理由を書いていきます。

あなたが求めている人生とは?

 

 今回のコラムは自己との対面を避けたい方はお読みにならないでください

 

根幹が揺らぐ

(自分が他者に見られたい姿としての)名誉、権威、賞賛を失うかもしれない、武装解除した本当の自分を見られたくない。

キャラを演じているままに(そんなつもりはなくてもやっていることがある。良い悪いではない。生きていく時に必要なペルソナという意味とは少し違うつもりで書いています)自分とはこういう人だという自己申告の通りに相手に観て欲しいので(こういった事もコントロールしたい)、どこかでいつも(バレやしないか?)と怖がっている。

 

タイトルの無い、権威の無い、ただ一人の自分は大したことが無いので、大したことがないことを知られたら今まで慕ってくれていた人たちが離れて行く。丸裸の自分には魅力がないので、そのような弱い姿を見られるのは耐えられない(と思っているが、本当の本当の本当は、丸裸の自分を愛して欲しいと願っていると思える)。

格好悪かったり、失敗すると他者が離れて行くと信じている。だから失敗したと感じる出来事を認められず目をそらしたい。これらは自分が周囲に対して無意識にジャッジしている跳ね返りの可能性もある。そういった価値観で生きているという意味で。

 

他者がありのままを自分を受け入れると思っていない。だから受け入れてもらえる「型」「理由」「意味」が必要だと思っている。

その逆も言えるのなら、あなたもありのままの他者を受けれていない。おそらく受け入れているつもりになっているのは、自分が上に立っているという(無意識でも、意識的でも)視点でOKを出したか、理想にハマっている相手だけだろう。その相手も自分の思い通りにならなくなるような姿を見たり、変化をすると(したと感じると)、過剰に傷ついたり、怒りが湧いたりして、裏切られたと感じるケースも多いみたい。

 

おそらく、これまで書いてきたような要因があるのなら(無し、0(ゼロ)な方はどの位いらっしゃるだろうか?)、書籍の意味的な「ヨコ」にはならなくて、そういう意味ではつながらない。


 

私ってそんなに悪い人間だったの?

自分は悪い人間じゃないと思いますよね。

そんなに悪いこともしていないし、とっても善行を行っているかは不明でも、悪い人間じゃ無い。そこそこの善人だと思う事が多いと思うのですが、上の項に書いたようなこういった事を認めるのは中々キツイ。

 

人によっては、自分の根幹が揺らぐ。

または、理想とは異なる自分を責め始める方もいるだろう。

この根幹の揺らぎは非常にキツくて、(なぜこんなことになったのか?)と大変深い海底の牡蠣を探し始めてしまう事がある。これが始まるとある種の迷宮に入ったようになり、心模様が明るくなるのにはその先割と長い月日が必要になったりする。(瞬時に他責に切り替えて、絶対に牡蠣探しをしない方もいる。もちろん自分を責めるような事はしない。良し悪しではなく、生き方の違いだと書いておきたい)

 

私も過去に経験したのですが、その時に「見たいように見て、聞きたいように聞いて、信じたいように信じている」こととはどういうことか?を心体の痛みを伴って体験したし、驚くほど傷つくという体験もした。生まれてからその年齢までに培っていたつもりになっていた価値観が如何に意味が無いか?(と、その時にはそう感じた。今まで取り組んできたつもりだったことは全て無駄だったと感じた)ということも知った。

その価値感が崩壊した瞬間には(いま、何か大切なものが壊れたな)という感覚を自覚した。

それが何かはその時は分からなかったが、これを書いている今、(あれは価値観だったのかもしれないな)と思うに至った。

私個人の例をあげると

私個人の例を挙げると、書籍「嫌われる勇気」の中に、人生を登山と見立てない。登るという感覚を採用しない。と書かれていたが、私は昔、その登山メタファー人生が良いと信じていた。6合目くらいかな?8合目くらいかな?と自分の意識付けや、当時はまだ修行思想が良いと思っていたのもあって、それらが実を結ぶようなつもりでいた。だから(人間としての鍛錬という意味で)一生懸命「メタファー山」を登って間もなく理想の頂上に達する、いや、ついに達した!? と感じた次の瞬間、自分の求めていたものと、その山の頂で得たものが、全く違う! なんだこれ!? これが私の求めていたものなの? と絶望を感じたことがある。

信念が通じない?通用しない?ということも私には一層の絶望感と形を変えた。その時は自分の価値感が良いと信じていたので尚更だった。

 

こんな体験があるので、根幹が揺らぐと本当にキツい。とは書いておきたい。

 

しかし私は、この最大級ガッカリ体験により、価値観を修正し、再構築することにしました。だが、(馬鹿なのは承知の上で)信念は引き続き変えたくなかった。その信念が「いつかホンモノになりたい」だった。

感情をコントロールすることを覚えていく。覚え直す。

あなたはいつ愛していると伝えたか? 伝えてもらったか?

 

「いつかホンモノになりたい」と思って修行してきたつもりだったが、(そもそもこの修行思想が違うんだ!)と価値観を変えた。ちょこちょこっとした手直しや、微調整くらいでは多分将来また違う山に登っちゃうな。と時間はかかったけれども一から始めると決心した。その後、(この登山メタファー人生も違うんだな)と思い、それもやめた。

積み木が崩れたから、一番下の段から創り直す感覚だ。

何故なら、そういった従来の考え方を積み重ねて「ニセモノ」を得た(ニセモノ山に登頂した)わけなので、本当に「いつかホンモノになりたい」のならニセモノを構築した設計図は役に立たない。と当時は考えました。本当の好みとは違っているが、折角努力したものを捨てる方が惜しいと思ってそれをずっと抱えているのは、「努力の甲斐なく」というガッカリと比較にならない人生の最大のリスクだと考えました。

正解も、その先の結果もわからないけど、間違いは間違いと認められるのが「ホンモノ」じゃないかな?って。

 

結果的には、こういった信念のような人生観のようなモノが片足を定点に置いていくような働きをしたのかも知れないと思えたのはずっと後だった。「ホンモノ」になるとかならないとかいう結果ではなくて、指標が揺らがないという意味で。(自分は揺らいで崩れたけれど)

帰巣する定点と心の故郷が重なる瞬間?

 

手元の灯りと、灯台の灯りを頼りに。と書きたくなったが、これは後付けで、物語を発動したにすぎない。書籍「嫌われる勇気」的に原因も理由も必要なく、物語も手放しを勧められると私も中々コラムを書きにくくなりますね。

価値観を変えるとは?

課題の分離に該当するだろうか?

物事(思考)の整理の例を書き進めますが、価値観も人生観も人それぞれなので内容について 違う! と思ったら採用しないでください。

 

他力本願?

取り掛かるべきは目の前の(上手くいかない、と感じている)相手との人間関係についてどうするのか?なのに、

  • 祈ればすべて上手くいく
  • 祈るだけで改善して欲しい
  • 善行を積めば、それと引き換えに面倒は割り引きして欲しい
  • 神様に叱られるような悪いことをしなければ、人生思い通りになると信じたい
  • 誰かになんとかして欲しい

 

自分が努力しなければいけない、慣れないシンドそうなコミュニケーションにチャレンジしたり、現実を実感するよりも、誰かに何とかして欲しい。たくさん祈るから、現実的な対人間の努力は差し引いてほしい。念力も使えるのなら自分が実際になにかするよりもしシンドイことが起きない念力でなんとかしたい。おまじないも同じく。

 

根底には、自分では取り組みたくない。という想いがどっしりと横たわっている。具体的にどうしたら良いのか?を学ぶ機会が無かったのかもしれないし、興味や視点が無ければお手本になるような事例も目にも入ってこないだろうが。

自分は今のままで、外的環境(人間関係も含め)が自分の思い通りに変わって欲しい。動いてほしい。

 

気持ちはわかりますよね。人生は自分持ちなのでご本人にお任せする以外ないのですが。

 

こういったこともこれまでのコラムに書いてきていますが、私も様々な変化を体験し、「あるがまま」という事について考える所があり、「在るがまま」の解釈が多岐に渡ろうが1つの正解は無いと思うようになり、人生を通じてどこまで自分を知るのか?もご本人の意識、無意識が決める事だろうと思うようになりました。

 

投資運用会社の社長曰く

過去のコラムに、他力本願を正当化する理由も色々あるというような事を書いたのですが、似たような事を投資会社の発行する毎月のお便りの中のコラムで読んだ。

少し長いですが、社会や経済の荒波のなかで生きてこられている方のコラムの一文を課題の分離の例としてわかりやすいと思ったので引用させて頂きます。

古(いにしえ)より占いは最終決断を迫られた際に多用されてきた。骨を割ったり、何かを転がしたり。しかしその結果に、説明可能な根拠があったのかは疑問だ。占いとは神の声を聞く行為であり、時の偽政者が神の威光を借りたかった・・・つまり決断の後押しを得るため、占いを都合よく解釈し「こうしたいんだ」という腹の意を正当化していた。後に決断が間違ったとわかっても、その時は神に責任を転嫁できる。「神は我々に試練を与えているだ」「我々の信仰心がたりないのだ」と。

現代の、個人がするタロットや星占いも、経営者が神仏にすがる行為も似たようなものだ。神の威光を自らの説得材料にしただけの違いだろう。

ーさわかみ投信株式会社 長期投資だより 2021年7月号 澤上龍氏のコラムより引用

 

澤上氏はコロナ禍で人々の不安が募ったのだろうと書いたのに続けて、

諸々の不安の増加、そして人と会う機会を奪われたこの状況が、人々を「誰かにすがる」ことへと促しているのかもしれない。

と今の占いブームを見ておられた。しかし、「誰かにすがる」のは占いブームに関係なく古今東西ずっとある。

 

また、氏は

悩んでいたけれど占いの結果もあるので前進してみよう。最終決断のトリガーを引けないなら占えばよい。

とその後に続けておられた。ちなみに氏は占いを全く信じておられないそうだ。

あれだけの資金が関わっている大会社の社長で占いを信じていない方も居れば、信じておられる方もいらっしゃるだろう。人生観は様々ですね。

 

どんな占いも法則も教えも、信じたい方は信じたら良いと思う。それが人生観の一部だと今の私は理解しています。ただ、課題の分離、自分の心の奥を知るということについて引用させて頂きました。私も昔は占い類を利用していましたが、それで後押しされたから決めたという具体例を実は覚えがないが、占いで「向かない」「時期尚早」と言われたからそれを理由にやめたこと具体例も覚えがない。

でも影響はしていた時期はあった。いろいろ上手くいかないように感じていた時期に、人生の流れのようなものをやたら気にしていたことがありました。その時は、さっさとやればいいことも損得とか考えて先延ばしにするようなことがあったような気がします。

しかし、澤上氏のコラムにこういった過去の私の「過敏」さ(怯えというか、自分の判断に自信が持てないという状態とも言える)について1つの参考になる意見があった。

読者においては「これだ」と思ったものを信じ、占いの力を借りてでも行動して欲しい。動かなければリスクもないがリターンもない。いや、時間を失うという実損と後悔が残るという意味では、リターンはマイナスだろう。しかし動いたならば、そこには必ず結果が伴い、仮に失敗しても「学び」というリターンが得られるのだ。

私の価値観が一度崩れ去って、自分の根幹が揺らいだと感じ、もう一度再構築する際には、こういった学び直しを繰り返し行った。 この辺りは澤上氏と私の考え方は少々似ているようだ。

自分を知るためのチャレンジ。自分のリソースを活かす。

 

もちろん(え! まだこんなに痛いことがあるの?? もう勘弁して)と感じる手痛い学びもあったが、今は平和だ。そして幸せ。

 

今の私は占い類はしていません。

 

「占いを利用しないとどうなる?」というお試し(実験・検証)を始めて割と年月が経つが、結果的にそれが続いているに過ぎない。しかし、復活させたいとも思っていない。 面白いことに、占いを利用している時よりもそれらを参考にしない今の方が平和で安定している。

決断で迷う事もあるが、(まっ! やってみて考えるしかないな。今は将来が観えないから。何かあったらその時考えよう)と思う事が多くなりました。その表れが、「9月は休みます」ということになったんです。

勿論、迷って「やらない」という事もあります。決める時は(先述した)軸足のことを念頭に置いたりしています。

 

占いと私の今の心体状況の因果関係はわからない。ということも書いておきたい。

 

「境界線」と「課題の分離」の違い

課題の分離とは程遠く、問題をすり替えているような事例は枚挙にいとまがない。

過去の私も、問題に取り組まずに、理想の自分になれば楽になれると思い込んでいた時があった。だから人生という「メタファー山」に真面目に取り組んだ。これだって立派な「問題のすり替え」だ。 目的と行動が一致していない。そしてそれに気がつけなかったが、失敗から学んだあとは「目的と行動が一致していない」という事例を我が身をもって理解する事ができた。

 

「人の振り見て我が振り直せ」方式はそれなりに成果を出したのかもしれないが、「課題の分離」という意味合いのことが未完了だと思うような変化にまで到達しないことに後から気がついた。未完了は未達成を生むことがある。

そういう意味で、自分と向き合うということにそれまでは深みが無かった。環境に対応していく以外の余裕やアイデアが無かった。しかし、これを「自分から逃げていた」と言われても否定はできないが、意識して逃げていたわけじゃない。知らなかったとは言える。しかし、後になれば「あれは逃げだったんだな」と自己理解ができる。

そして分かったことは、是が非でも、逃げ場なく自分と向き合う機会がこないと、私はなかなか気がつけなかった。悪気はなくても、「自分と向き合う深さ」について気がつけなかった。

 

これが、凶事は吉事の一例です。

気がつけない理由は?

判断基準が自分の中あるのではなくて

  • 感情
  • 上下関係
  • 損得
  • 体裁
  • 常識
  • 教え
  • 法則

で、良し悪しを判断しているからとも言えるのかな?

 

自分が何を感じているのかわからないとか、苦手とか、それじゃダメだと信じ込んでいるのか、封印しているのか様々だろうけど、こういう意味での「成熟」「成長」へ舵を切っていないかなぁと。

そもそも、そういったことを教えてくれる人がいないならば、自分で気がつく以外に無いのですが、どっちも難しい時があるようです。

 

善き人になろうと思った自分が置き去りざり

理想に気を取られ過ぎると、現実を忘れがちになることもある。

「教え」を語ること、学ぶこと、または知りたがる余りに自分が置き去りになることもあるが、知っている(情報、知識)という自覚がある分、自分が置き去りになっていることに気がつけなくなる。

なんなんでしょうね? このマジックみたいな、トリックみたいな作用は。

ついつい自分を忘れちゃう。ついつい飲み込まれちゃう。それはメタ認知と関係が?

 

自分を感じる時に

思考も大切ですが、感覚も大切。

 

感覚的に(おや?)と思えば、何かしらそれを糸口に矛盾などに気がつくチャンスがあるが、大抵は(おや?)と思っても踏みつぶす。一度踏みつぶすと、次に気がつけるチャンスはしばらく来ない。途中何度も目には入ってきているはずだけど感覚が鈍麻するような作用でもあるのか、気がつけなくなってしまうような気がする。

五感を整えておく

感情や損得に凌駕されない「感性」を育ててみるのもお薦めしたい。

人智学という考え方ー7 感覚、悟性

 

 

つづきます

気がついたら、今回のコラムが随分長くなっていますので、この先は次回にまわします。

次回は

  • まとめ
  • 補足

の2つくらいで短くまとめられる予定です。

 

(2021/08/20)

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