変わりたいのか? 変わりたくないのか?
Contents
ついつい忘れがち。「ところで私って本当に変わりたいだっけ?」
書籍「嫌われる勇気」を聴いた。そしてコラムを書きます。
不満はあるから、「変われば良いのに。」と思うが、その変われば良いのに。はあくまで自分以外だったりする。
しかし、その辺りは心理的盲点(スコトーマ)になっていて、ネット検索する時には「変わりたい」とまるで自分が変わるつもりがあるかのように言葉を使っていないだろうか? そして、何も変わらないからと悩み苦しむ。
- 人生が変われば良いのに、とか、
- もっと楽になりたい、とか
- 幸せになりたい。という時に
今一度自問自答してみてください。
「私は変わりたい」「私は変わるつもり」なのかどうか?を。
その結果、今は変わるつもりはない。という事が自己理解出来ればそれで良い。
そっかー 私って別に変りたくないんだ。初めて気がついたよ。だって面倒くさそうだもんね。自分がシンドイ思いをしてまで変わりたくないから、まっいっか。で終わる話です。
そして悩みが1つ減る。
あなたはあなたのままでいい
あなたはあなたのままでいい。という思想もあります。
字面通りに受け取ることもできるし、「あなたのまま」とは何を?どこを?意味しているのか?ともう少し深く考えてみることもできる。
自分を知らなければ、「わたしのまま」とはどういう状態か?が分からないし、自分を知らなくても今の状態を「わたしのまま」と理解することもできる。
正解とか云々は置いておいて、即座にネット検索する手も止めて、今のあなたが感じている「わたしのまま」は何を指していますか?
自分を感じないと話が始まらないので、これを読んで頂いている今、今の捉え方をメモ書きしてみてください。
Gerd AltmannによるPixabayからの画像
さっさと読めばいいのに
バカ丸出しだし、屁理屈を発動させたり、意味もなく斜に構えてみたり、クソ生意気を炸裂させたりとちっぽけ人間で情けないっす。でも笑えます。
書籍「嫌われる勇気」をさっさと読まない辺りに、こういった偏屈ぶりが現れていたのでまた笑えた。
↓
その様は、完璧人間とはとんでもなく程遠いけれども、屁理屈を発動させたり、意味もなく斜に構えてみたり、クソ生意気を炸裂させたりすることが功を奏して時々ヒットを打てる時があるのでこれも個性かと思い、自分との付き合い方にも以前より慣れてきました。
また、これを書いている前日、
- 「何時間も考え続けられる人は少ない」と耳にして、(えっ!? そうなの?)と虚をつかれました。
続けて他にも、
- 情報をブレインマップ(を使用しなくたって別にいい)のような形で落とし込んで、それを再度アップ(まとめた事を公表する)できる人は少ない。とも聞いてこれにも驚いた。(◎_◎) そうなの???
ちっぽけ人間もちっぽけなりにできてる事ってあるんだね。と気がつきました。有り難いことです。
読まずに聴いた「嫌われる勇気」
今更なのは、毎度のことなので気にしないでいただきたい。
率直な感想は、リンクを貼ってご紹介しているブログに書いていますが、(似てるなー)というものでした。
アドラーさんと似ているのじゃなくて、この著者と似ていると感じたのですが、使う用語やニュアンス、例え話まで似ている時があると感じました。
ですから、アドラー心理学と書いていますが、アドラー心理学そのもののみを読んだわけでは無くて、「嫌われる勇気」というアドラー心理学をお薦めしたい著者がお書きになった本を聴いたに過ぎないのでこれは前提としてご理解ください。
蜘蛛の糸のあのイラストが頭に浮かんだ
また、本を聴いているうちに、あのお馴染みの図が頭に浮かびました。
わお! またこの話だな! と感じた。
となると、ひょっとしたらメタ認知も関わってくるのでしょうか?
これは「わかったつもり」になりやすい本かも
あと1つ、「これは難しいだろうな~」と感じたのは、おそらく、人生観というものを意識したことが無いと、本に書いている文字や内容は読めるでしょうが、意味が捉えにくいんじゃないかと思いました。なのにわかったつもりになりやすいのでは?と感じたのは、平易な言葉で書かれているからです。
例)タテとヨコ
例を挙げると、タテとヨコの関係という事を実践していない方以外には「人間との付き合い方。タテとヨコ」についても多分分かりにくいと思う。ヨコの関係を実践しようと思うと、もう無意識過ぎて気がつけない、自分が設定している秘めたる上下関係や他人は自分の欲求を満たすためにいるという付き合い方しかしたことがない。というようなことに先ずは気がつかないといけなくなりますが、そういった「負」と感じる事は自分の中にない。自分はもっといい人間、高尚な人間だと思いたいでしょ?(私は思いたかったですよ)
また、
- 尊重して欲しいとか、
- 尊敬して欲しいとか、
- 気に入られるために本音は言わない、
- 良い所だけ見て欲しい、
- 甘えさせて欲しい、誰でも良いから甘えたい
- (書き方は難しいですがある種の)「教え」好き
- (書き方は難しいですがある種の)法則好き
- 承認されないのが怖い、耐えられない ← 否定されるのが怖い、の方が良いかな。
というような気持・傾向が強い場合は、タテの関係にしかならないんじゃないかと思ったからです。というか、タテの関係に安心感を持つんだろうと思うんですよ。これらは、基本的な価値観だろうと思うので、人生観ごと変わるというような開き直りは相当なショックでもないと難しいんじゃないかな。どうかな。いとも簡単に方針を変える方も居るとは思いますが、多くなさそうだ。
「ふり」や「マネ」では意味が無い
ヨコの関係の「ふり」はできますよ。
ヨコの関係で人付き合いをしている方を見つけた時に「マネ」もそれなりにできると思う。
その「ふり」や「マネ」をする程度の頭の良さや器用さを持ち合わせている方は多いと思うけど、多分アドラー心理学というものはそういった「ふり」や「マネ」をしたままでは実践できないんじゃないかと思ったんですよね。
「ふり」や「マネ」をする理由が、好かれたいから。だとしたら、本末転倒でしょう? 違う?
そこに気がついて、そういった手法を取ろうとした自分を認めるって、難しい方には難しんじゃないだろうか?
一ひねりしただけに、自分の理想と一ひねり分遠ざかっていますもんね。
実践しようとしたら、自分をちゃんと感じて、「ふり」や「マネ」を経由して、練習して身につけていくことになるんでしょうが、慣れていないことは格好悪い姿を他人に見せる場面に遭遇しやすいと思うと怖くてできない。
だから「勇気」がキーワードになってくるんでしょうね
だから、「勇気」が要るんでしょうね。
今まで、自分のそういった部分(自分にあることが許せない部分)を見ないようにしてきたのに、だれにも強制されていないのに見ることになる。しかし、見ないことも選べる。
それをやったら人生が変わるという保証もない。幸せになるという確約もない。
だから、人生観が大切になってくるんだと思うんですよね。
付け焼き刃ではこれ以上先には進めない場所に来ている。逃げ場なし。あなたは退路を断てますか?
そこまでのやる気はありますか?
私は退路を断つような気持がありましたよ。「やるっきゃない」と取り組んできましたが、凹むことや自分にウンザリすることを経由して結果は案ずるより産むが易しでした。単に道中感じた事を忘れただけですが、こういった事を「恐怖をブレイクスルーする」と名づけたのかな?もうハッキリ覚えていないけど。
その点、原因論やトラウマ論は柔らかい部分があるのかもしれません。
無意識?癖? 受け取りやすいニュアンスに変えていく
上のコラムの中に書いた文章を、取り上げて説明してみたい。
好きな人、周りにいる人と価値観が一緒だと思いたい時もあれば、それは自分を無条件に受けいれて欲しいという願いが姿を変えたものである場合もあり、自分の欲求に夢中で相手のこと(好みや価値観)をまるで知らないということも忘れていたりします。
この部分と
価値観が一緒が良い(価値観が一緒だと考えている)というよりも、相手が自分に合わせて欲しいだけという事だってあるだろう。無条件に自分の欲求を満たして欲しいと潜在的に求めている人は多いのではないだろうか?
この部分で、「嫌われる勇気」と「原因論」の違いをご紹介できそうだ。
つまびらかにすると
登場人物をAとBとしよう。2人の価値観が違っていることなど当たり前にあるが、好きだという理由があると違いを感じた時に傷つくことがある。それは傷ついた側の(双方かも知れないが)、一緒の気持ちでいて欲しいという願望が叶わなかっただけであり、勘違いだったに過ぎない。こういった体験があったとします。
そもそも、「好きが故に」という理由をつけたほうが自分の「負」を見ずに済む。
「嫌われる勇気」的な見方をすると、一皮か二皮下にある目的は「衝動を抑えない丸ごとの私を無条件に愛して欲しい。」「衝動を我慢したくない」「自分の思い通りのこと以外は受け入れたくない」「他人を意のままにしたい」などという可能性も考えられるはずだけれど、それらが見過ごされていることになる。
このように、理由付けをせず、つまびらかにすると、なかなか痛いのである。しかし、この位つまびらかにしてしっかり認知しないと、その後の行動変容がしにくいとも思う。
違う言い方をすると、理由付け/意味づけをするとニュアンスはいかようにも変えていける。原因探しをしていると、かなり長期の旅路に出る時があるか、それはニュアンスを脳内や感性でどんどん変性させていっているという事があるような気がする。
それが表しているところは、「自分に向き合う準備が整っていない」とか、「自分は変わりたくない」というような事になるのかもしれない。
過去のコラムにとりあげた例
なんというか、ある状態から、「嫌われる勇気」的な意味でギアをもう一段階変えていくのならば、ただOFFをONにしていることに、大事なナニカを加える必要があるような気がしたのはこんな理由からだったかもしれない。
セッションを行っている側の「認識」はどこまで影響するんだろう?と頭に浮かんだりするんですよね。
少なくとも、会話には影響が現れてるんじゃないかな。
私の気づき
「嫌われる勇気」を読んで、私個人が(似ている)と感じた理由がわかった。
私のコラムには、原因論やトラウマ論が「柔らかい」と感じるような性質が少ないんだと。
あけすけと言えばそうだけど、正直に書き過ぎて、読んでいる方には「キツイ」と。
以前確かに、「優しさがある文章(ブログ)が好き」と言いつつ、(あなたの書くものには優しさが無い)って言いたい、非難したいのよね?という言外をキチンと投げてくださった方がいた。
初対面だったが、おそらくナニカの都合でブログなどを読んで下さっていたようだった。そして、(あなたの書くものは優しさがない)と言いたかったんだろう。そして、実際に会った時に「優しさがある文章(ブログ)が好き」という言葉と共に否定感がこもった視線と表情、態度で見事に伝えてくださった。(その方が師事している先生は凄いというようなこともおっしゃっていた) 傷つきはしないが、(え?初対面でどうしてその態度?)とは思った。 私の文章はキツイかもしれないが、あなたの態度もなかなか失礼ですよね? なんて心の中で思ったもの(笑) その時はしっかりと(あなたのことは認めない)というその方の意思は受け取りました。ありがとうございました。
こういった過去の良い思い出が蘇り、そして、ようやく、客観的に「キツイ」の意味が理解できた。
うん、確かにキツイ。
だって私も自分の人生改革(価値観改革)の最中はキツかったもん(朧げに覚えてる)。自分の中の醜い・悪い・許せないと感じている部分をまじまじと見て、感じ、認めて、受け入れるのはキツかった。何より自分に幻滅したし。(やってるうちに慣れてくるので、ずっとキツくはない。慣れるまで最初はキツイ)
そして、この昔のやり取りも、
その時は(私の文章はキツイかもしれないが、あなたの態度もなかなか失礼ですよね?)と思い
↓
その後は、あの方はそう言う価値観なんだな。と思い
↓
今は、(ホントだね!)と共感できます。(笑)
回復のペースを当人がハンドリングしている
こちらに ↓ 回復のペースは、クライアントの意志も影響していそうだと書いたのですが、クライアントの準備が整ったところまで回復するというのはあると思います。
最後に
今となっては「嫌われる勇気」というような追い風(ハロー効果?権威付け?)も吹いたかもしれないが、本が出版される前からこの調子だから(あなた誰よ? 有名でもないのにエラそうに)と思う方も居たんだと思う。(って今でも同じだけど。)
優しくしてもらえる(感じる)、受け入れやすい辺りまでは自分を見つめるのはOKだけど、それより先は見たくない。という価値観もあるだろうし、それはその方の生き方であって、やはり尊重していきたいと今は思っています。
私も変わったなぁ。
オンラインセッションもしています。
今回はここまで。つづきを書く予定です。
(2021/08/10)