帰巣する定点と心の故郷が重なる瞬間?

心の故郷とは?

脳内リミックス(Rimix)する際に、理解していた方が良さそうな事

私には、真理って多分、ずっと目の前に見えているものだと思っている節がある。それはこの次元Aにあって、生まれてから死ぬまで目の前にいつもある。多くはそれが遠くにあるとか、隠されているとか、選ばれた人しかわからないという伝聞を信じ込んでしまったがために見えなくなってしまっているんじゃないか? と考えている節があるんです。だから真理を「探す」とか「求める」という発想になって、一線を超えてどこぞの次元へ出かけて行ってしまうんじゃないかな。 -コラム「

シリーズ4話目 ランオーバー・バッファオーバーランで「量子心理学」「次元心理学」へ」より抜粋

と、私の感じ方を書いていますが(もうずっと前にも何度か「どこかへ行く必要はないと思う」書いていたはずですが、そのコラムをすぐには見つけられなかったのですが、見つかったらリンクを貼っておきます)、今読み始めている書籍「中年クライシス」(河合隼雄著)に、禅僧の言葉として

道は近きあり、却ってこれを遠きに求むという言葉がある。

が紹介されていました。

父母未生以前本来の面目を今生きている。と気がつけば鎌倉まで行く必要なかったのではなかろうか。

いつも思いますが、賢い方は端的に表しますね(笑)

(しかしどうやら、禅や仏教、神道も?の考え方と、現在の心理学的な「自分」というものは解釈が違うようです。私は禅や仏教を伝える立場ではありませんし、回復していく際に、何かの教えに沿っていこうとする前に心理学的な「自分」を認知するサポートをしています。

既存の教えなどに沿いたい方は専門機関へ。心理学的なアプローチとサポート、ストレスケアをご希望の方は私へとお問い合わせください。)

 

また、こういった既存の宗教や教え、法則を良いとこどりをしてストレスケアとして伝える側も、伝えられる側も、脳内リミックス(Rimix)の際に生じる矛盾には気がついていた方が良いのかもしれない。それらと折り合いをつけつつ、自分なりの脳内リミックスしたものの優先順位があったり、考えたり、認識する大切さだという自覚はあると良いような気がしている。私も気を付けている。 

これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つ

 

同じ言葉を、異なる意味合いや、真逆な意味で使っていると、ダブルバインド、トリプルバインド、またはそれ以上を引き起こしてこじれていく時があるから。良さそうな思想が万人に良いとは限らない訳ですよね。

私はそのあたりの複雑さを考慮して、以前から書いているが、ストレスケアをサポートしているというシンプル路線だ。良さそうな思想ありきではなくて、やはり目の前の相談者さんの今の状態に注意して、回復を目的としたストレスケアありきにしていきたい。

 

取り込みと、取り込まれるは全然違う。どこが違うのかと言うと

答えを先に書くと、自分が有るのか?、無いのか?の違いだと思います。

前回のコラムでは、帰巣する定点(自分)を持つのか、持たないのかという表現をしてみた。または自分を定点だと仮定する感覚の有無かも知れない。

 

次元と陰陽

 

世の中色んな方がいらっしゃるが、

  1. 取り込まれてわかったつもりになる方も居る。
  2. 取り込んで理解する方も居る。

私ももちろんどちらも体験しました。自分から取り込まれていく場合は、≒(ニアリーイコール)遺伝子(または細胞でも良いが)の特質の本能のままの行動と言い換えることができるのかもしれない。日本にも、自分を無くして全体に参加するんだという教育もあった。今もあると思うが、和を乱さないことが良い子だとされたりと取り込まれることは「善し」とされていたし、仮称】≒(ニアリーイコール)遺伝子(または細胞でも良いが)的な働きをする要素とは親和性が高い。本能という意味では、憑依体質だったり、解離体質と言う事になるだろうか。自分消失体質というか。まさか自分にこういった傾向があるとは気がついていない方が多いんだろうと思う。 こういう意味で、全体に融合できないことが悩みとなったりもする。 (国民性というか、民族性というか、DNAに入ってるじゃなかろうか。)

そして、ふと、自分が好きで(本能のまま)取り込まれて言っていたものに違和感を感じると、次なる対象へ(取り込まれるために)移っていくのならそれはパターン、繰り返しであろうが、それを意識化して、行動修正していくには(それがしたければだけど)少々時間がかかると思う。 ある意味、自分で立つ習慣が無いのだから、それに慣れるまでの時間も必要だろう。

と、書いていたら、またまた学問の神様のご厚意か、書籍「中年クライシス」(河合隼雄著)の中に

欧米人が、まず自我を確立して自己主張していくという方法をとるのと異なり、日本では自分の周囲の考えなどを受け入れつつ自分をつくっていくという方法がとられる。日本人は、まず自己主張するよりも、他を取り入れるというパターンを身につけている。そこで、主体であるところの人間(男性)は、外界から来た客体(女性)の積極的な行為に合わせて、あるいは受け入れて、行動したように意識したり、実際にそのような「形」をとるほうを好んだりするのではなかろうか。

という文章が現れました。

 

という事は、

日本では自分の周囲の考えなどを受け入れつつ自分をつくっていくという方法がとられる。

はずなのに、取り入れることは得意だが(例 ≒(ニアリーイコール)遺伝子や細胞の自然の働きによって)、その後の自分をつくっていくと言うところが弱いというか、意識されないのだろう。 そりゃあ周りに自立した見本が居なければ、自分をつくるってどんなこと?と真似る(参考にする)ことができないし、参考にするヒトがいないけど自分でそれをやっていくというのは、それこそ理性や意識による創造力や行動力とか欧米人的な遺伝子・細胞を持っている必要があるんだろう。

 

経済的な自立以外にも自立と言うのはあるわけで、言うのは簡単、行うまでの道のりはそれなりにあるんだろう。

 

そして、この引用文をヒントにするのなら、男性性と女性性のバランスも整えて置くと良いね。と言うことになるのかもしれないが、それを簡単に50:50と考えて良いのかはよくわかりません。シーンによっても変わることがあるだろうし、相手によっても変わることがあるだろう。

 

ちなみに、私がこのようなコラムをこのような口調・文調で書いている理由の1つに

  1. これまでにほんの時々「純粋な日本人か? 欧米の血は入っていないか?」と聞かれたことがあったので、自分の知る限り家系図(も無い訳だが)には日本人しかいないと思ってきたが、欧米人のDNAが混ざっているのかも知れないし
  2. こちらは若い頃から頻繁に言われてきたが「中性的」と言われていた(子どもの頃は男オンナだったのを思い出した)ので、視点や思考が まぁそんな風になっている可能性もある。

 

1.ついては、今生きている親戚筋など誰からも一切聞いたことがないし、噂も無いから、遺伝子が入ったとしたら相当、本当に相当な以前だろう。

 

余談

以前、facebookでシェアしたが、何人(ヨーロッパ系やアフリカ系という意味)のDNAが何%入ってるのか調べてビックリ!というDNA検査(の広告)についてシェアしたことがある。「○○人は嫌い!」と言っていたご本人のDNAにその嫌いと言っていた〇〇人のDNAが25%(例)入っていましたよ。という結果を聞いて唖然としていたどこかの国の方がいた。日本は今は島国だが、その昔は大陸と繋がっていたので、多くの方は同じような事が言えるのではないでしょうか? それに、今の常識と昔の常識は異なるようなので、〇〇人というようなヘイトに繋がる感覚が生まれたのは最近かも知れないし。

心の故郷とは?

鎧を身につけ、泣かずに頑張るのは、本当の強さではない。本当に強くなるためには、鎧を脱ぐ必要があるし、それを可能にするためには、心の故郷への回帰を必要とするのだろう。ー「中年クライシス」河合隼雄著

私の人生がトータル何年かは終わりの日がくるまでわからないが、生まれてから今日までの間で、それなりに長い期間、鎧を身につけていますよ!と意識していた時期があった。わざと鎧をまとっていた。色々あって経験も増え、良い出会いもあり、徐々に様子を見ながらある程度鎧を脱ぐことにした。自分も良かれと思って鎧をまとったつもりが、機械人間みたいになっているようで、(あれ?こんなのなりたい自分と違うなぁ)と軌道修正をおこない、それに伴って脱・鎧運動をコツコツ続けた結果、鎧も随分脱げた。わざと。意識して。その後、この状態で満足していた。

生き易くなったし、力も抜けたし。社会生活ではこの先も色々あるだろうが、生きづらさに関しては取り立ててもう何の問題も無かった。

 

多分もうある程度強くなっていたんだと思います。

良いも悪いも、経験しておいて良かったと感じておりました。

 

別に心の鎧は0(ゼロ・無し)ではないけど、この位少なかったらそれで良いし、社会生活を送っていく上で、こういったものは有って然るべきだと考えていました。誰でもそうでしょ?って感じで。

 

人智学という考え方ー10 メインルートに戻って書きます。「感覚」

 

ところがある日、上でシェアしたリンクの中での(なるほど! 心が裸ん坊になるというのはこう言う事か! こんな感覚があるんだ!)という人生初の感覚体験をして、またまた、(なるほど!確かにいつもは「心包経」という状態なんだな。確かに包まれているわ。)と理解しました。

 

その後、脳内の電気状態が活性化されたようで、boostされたなぁとも感じましたが、多分、強くもなったんだろうと思います。

自分だけで強くなったというより、この文章にあるような、心の故郷感というか、安心感というものが有る故に、強くなったような気がします。心が裸ん坊になるという経験をした後に、あぁ護られているんだということも感じました。

 

何も要らないんだな。ということや、生きてるだけでOKなんだな。ということを、より一層体感した。

 

それまでも「大丈夫」と思えていたとします。普通に思っていたのでフォントサイズ10としましょう。とはいっても、これでも十分で、有り難いなぁ 一生この感覚があると良いなぁとも思っていた。

ところが、この心の故郷感を得た後は、「大丈夫」 フォントサイズ MAX(←これは28ですが)みたいな感じです。人生初だから、こういった境地があるなんて想像していなかった。

 

最初は、社会の中で生きて行こうと思って心の鎧を身につけたわけですが、それを取っ払ったような体験の後の方が生き易いというのがまた面白いでしょ?

不安や恐怖の感じ方と、その対処方法が変わっていますよね。

不安や恐怖をご本人が感じない人も、行動をよく見たら不安や恐怖を現わしているものですし、心の鎧もそうだったりするんですが、それを自覚して、運よくパァッっとすべて取っ払われる一瞬があるだけでも人生の感じ方は随分変わるものでした。

 

今は多分、その鎧がパァっと全部取っ払われた後、また着込んでいるでしょうが、薄めだと思います。心包経が無いってのもどうかと思うし、心包経が機能していないのもどうかと思いますが、エゴなのか、自分なのか、そういったものが消えた瞬間には守る機能をしているものごと一切合切消えちゃうのでしょうね。

 

私の定点感に心の故郷感が上乗せされた

この先の将来はわかりませんが、人生の一時でもこういった心の安息、心の故郷感が沸き起こってくるような時間があるだけでもありがたいし、体感を感じるのも有り難い。私の定点感に心の故郷感が上乗せされたようでもあり、性質が変容したようでもある。

冥途の大土産になりますわ。(笑)

 

現実は多層

私がここ最近書いてきたような多次元という意味ではないが、河合隼雄先生も「多層」という言葉を使われていました。

その言葉の内容は違いますが、河合隼雄先生は、

科学の対象としている現実はひとつであっても、現実そのものはもっと多層的であり、そこに唯一の正しい現実があるのではない。その多層的な現実をどのように知り、どう折り合いをつけるかという困難な仕事をするのが、中年なのである。ここのところがうまくいかないと、青年のままで年を取るので、老いや死を迎えるのが、大変なことになってくる。

と書いておられました。

書き方としては、私と河合先生の視点はA≒Bかもしれないが、成熟を大切だと感じる点はA=Bのように思う。

 

感情と成熟(精神的に大人になる)


 

帰巣する定点と心の故郷

帰巣する定点は人間形成が進めば変わることだってある。と、私は考えています。

が、また別の表現として、実は定点は生まれてからずっと一緒の場所だという脳内映像も観た事がある。どちらにしても、心体共にそこに居るのか、頭だけどこかへ外れて行ってしまうのか?分離すると残された体も影響を受けて熱量効率も低下するという事も考えられられるのかも知れない。

digital designerによるPixabayからの画像

 

または自分でコントロールできないバックヤードの膨大な歯車が カチッと合わさった瞬間なのかも知れない。ですから私は有り難く心の故郷感を感じられた出来事とご縁を特大ラッキーとして素直に受け取りましたよ。(^^) 

こういう機会をpassする方も居るし、passせざるを得ないと感じることもあるだろうし、あえて潰すというような色々なケースを見聞きしたことがありますが、人生観は様々なので、良いも悪いも無いですね。本当にそう思う。誰もその先を知らないのだから、それがラッキーなのかどうかもその時には保証も確証もないだろうけど、定点感や自分の人生スタイルがある程度あると、直感も良い働きをすると思えます。 そういった時に、目先の損得勘定のみで選択をする場合は、何かにつけその後も基準が損得勘定だけの割とコンパクトな人生形成につながるような気もするけどどうだろう。こんなことを考えるような事象を見聞きすることもあったので、私も目先の損得勘定で反応するのを止めていくようにしたんですよね。

それに、壮大な仕組みの中では、何が特大ラッキーなのかなんて、結構な年数が経たないとわからないことってあると思っていて、特大アンラッキーに感じたことが10年とか20年、30年経ったらパチンコの大フィーバーみたいな事象に繋がるってありますよ。しかし、大フィーバーに繋がるためにもしっかり生きるという定点(次元A)は大切かなって思っています。

 

 

 

最後に

色んなことをコラムに書いていますが、「生きているだけでOK」という感覚も確かにある。

ならば、こだわっているような事を書かなければ良いのに。と自分でも思う時があります。

私が得意な事?

私の特技は噛み砕きなんだと最近自覚してきました。ガッツリわかっている方と、専門用語や、そういった端的な表現ではわからない方の中間にいるトランスレータ (translator)みたいなことが得意なんだろうと思うようになりました。言葉の変換だけのトランスレータ (translator)じゃなくて、自分の体験を通しての通訳的役割であり、私自身もあれこれと体験・経験していないと噛み砕けない。これも1つの触媒姿勢なのでしょうか?

こういった特技があるとしたら、セッション・面談の際には役立っていることであろう。
 

また、こういったことが私の特技ならば簡単解説付き体験講座をずっとやってこれたのもわかる。全然苦じゃない。楽しいもん。

 

しかし、噛み砕きとはいっても、物理や科学に宗教などに関しては空想小説的になってくるわけですので、読んで下さった方の自主学習頼みです。違っていても、合っていても、自主研究の後はあなた自身のレイヤーの一部にはなる可能性がありますものね。

そんな私は、ちょうどご紹介したSF映画の中に「取り込まれる」というキーワードが出てきたので、前コラムを書く前から「取り込み」と「取り込まれる」の違いを考えていたが、今回もまた触れてみました。

好きなスタイル

コラムを書く時のスタイルもだんだんできてきましたが、ブログと同じく、専門用語やあまり難しい言葉を使わず(講義的ではなくの意)、おしゃべりしているみたいに文章を書いて行けたらいいなぁと思っています。

自分では無自覚でしたが、私が短い文章を書くのを見ていた友人が「美紀さんって喋ってるみたいに文章を書くんだね。私は文章を書こうとするとすごく時間がかかるのに、サラサラ書いていくんだね(◎_◎)」と言ってくれたことが私にとても良い影響を与えてくれました。

私は先生でもないし、「さぁ私が教えてあげよう」なんてつもりも無いし(それどころか、教えて欲しいですよ。)、何度もあちこちで書いていますが、「台所で喋ってる」感じが好きですね。コーヒーを手に持っての立ち話でも良いんですよ。 または、洒落たカフェじゃなくて、くつろげる喫茶店でお喋りしているようなイメージでも良いです。実際に気楽なカフェでお喋りしている時にあの薄っすいペーパーに図解を書くことも度々あるので、コラムに差し込んでいる手書きの図やイラストなどは、そのまんまな感じ。 美しさより伝わりやすさという感じです(笑)

その位のチカラ加減なので、後で読んだ時に誤字脱字や文章を訂正することも多いです。アップする前にチェックはしているんですが、一旦距離を置くとまた色んなものが見えてきて、(なんじゃこのクオリティは・・・(-_-))と反省することもあります。

そんな感じに「考えてみようよ!」とか、「考えてみたんだけど」というような感じで今後もコラムを書いて行けたら嬉しいです。学術的にというよりも、視点のシェアのような役割が良いかなぁと思っています。

 

また、こういった体験の前の私の「心の故郷感」というのは、名古屋の生まれ育ったエリアの川沿いの桜並木だったり、桜の時期以外は川沿いの緑並木というような事などを心の故郷感と感じていたし、故郷感ってこういう事よね?と感じていた。ところが「心の故郷感」というのは、もうそういった心象風景とは全然別の「居た場所感」が「心」から沸き起こってくるというものだった。故郷を思い出す様な郷愁を含んだ思い出し方だった。

人間って本当に奇跡の産物なんですね(笑)

 

(2021/05/17)

 

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