バランスについて

バランスについて

今日の前書き 

科学とは?

「量子心理学」とか「次元心理学」と表現したら、また視点が広がって良いんじゃないかと思ってはいますが、「学」というには私自身が科学も物理も解説しきれるわけじゃない腰砕けぶりなのも勿論わかってる。ありていに言うと「空想小説」の分野が近いのかもしれない。小説でもない訳ですが。

こんなことを書いておかないといけないな~と思っていたら、こちらでご紹介した書籍の最後に、ノーベル物理学賞を受賞された朝永振一朗氏が色紙にお書きになった言葉が現れました。

 

ふしぎだと思う事

これが科学の芽です

よく観察してたしかめ

そして考えること

これが科学の茎です

そうして最後になぞがとける

これが科学の花です

 

私自身に当てはめると、対象はマニアックだが「茎」までは得意です。花がどの程度咲いているのかはわかりませんが、別に学説とか、今日現在まで証明されている正しい理論の名前を知らなくても良いのなら花は咲いているし、研究したら新しく発見されましたというような記事の内容など(それはずっと前から知ってる。体感に自覚があるもの)というようななんだか独特かもしれない花は割と咲いているような気がする(笑)

それに、私は学説を発表するわけじゃない、コラムを書いたからといって権威的な承認も別に貰うわけじゃないし、理論解説が正しく出来ないからといって傷つくプライドもない。私が科学や物理の先生だったら今の状態ではマズいが、「独りぼっち研究」の思考過程を書いているだけなので。

自分が書ける体験と、そこからその時現在の考え方をアウトプットすることも次なる段階へのステップなので、ですから、「学」という名称は適していないですが、これを目にして頂いた方がご自分の現在の状態を自己認知する際の視点の広がりとしてレイヤーの片隅でお役に立つことがあれば幸いです。

ですから、この書籍「科学で大切なことは本と映画で学んだ」の巻末で、エッセイの語源は「試み」という意味だと知ったので、私のホームページのコラムと書いているものは、その実エッセイである回も多いような気がします。

 

こういった事も踏まえて、コラムを読んで頂いているあなたの思考の導火線や、レイヤーになれば光栄です。

 

身体性

そして、今日ここまでのところ(続き物の6話のコラムをアップしたところで)身体性の大切さを一層感じている。

人智学という考え方ー1 経緯編

 

人智学のコラムは12話もあるのですが、ここにきて、これらの大切さがますますクッキリと浮き上がってきたな。と感じています。

 

本能

こちらのブログに、

本能のバランス調整ということもしっかりと改めて考えんといかんな。ということです。

(前々から検討していましたが、いよいよもう少し考えてみようか)

と書いたのですが、これについては数年前からひっそりと考え続けている。先ほどの朝永振一朗氏が色紙にお書きになった言葉をお借りすると「ひとり科学」の案件になっている。

それは本能の調整をどうやってするのか?というテクニック的なことじゃなくて、もっともっと基本的なところです。

時間×観察×その検証というところでの変化についてです。

これについては、当面書くつもりはないのですが、引き続き冷静に見て行きたいと思っています。

 

ただ、脳の機能は全体で動いているでしょうから、特定の部位という意味ではなくて、そういう働きをしているよ。という前提にのっとった名称としての「前頭前野部」という場所が活性化しないと、本能の調整の弊害が出てくるというようなことってあるんじゃないかな?という視点は1つ持っていて、まぁ簡単に言うと「欲望の解放」と、その先の「欲望の暴走」というような可能性です。 

以前もコラムで書きました本能の調整をしたら、自然に理性が発達するわけじゃなくて、ある意味、本能の調整をすればするほど、それに匹敵する理性の成長が追い付かないという現象もあるだろうし、すればするほど、だからこそ(一例:衝動を抑える類の理性が)成熟しにくい土壌を形成するという可能性も考えていきたい。

本能の調整と次元Aの関係については、個々がどういった次元Aを想定したいかによりますが、現代社会での生き易さを目指したいのなら、無理のないストレス耐性を支える理性は大切だと思えます。 自分の身体感覚を知覚して、認知や行動を修正していくのも理性の仕事だと思っていますし、本能が暴走すると身体感覚の知覚に影響があるような気がします。となるとひいては認知や行動にも影響があるというイメージが私にはあるのですが、あなたはどう感じますか?

バランスが大切だとあらゆる意味で感じる時があります。と、当面書くつもりがないと書いて、その舌の根(筆のインク)も乾かぬうちにあらましを書いてしまった。

気合と精神力、素直さではカバーしきれない、あなたが気がつけない脳のクセ

 

 

この辺りは非常に丁寧に扱っていきたいと考えています。私自身はここはとっても大切に考えたいし、扱いたい。ですから「ストレスケアの早道」ということも、個人的には目の前の早さよりも、着実に行きたい派なので、こういった注意深さも伴っていたい。 それに、時間がかかることに腹をくくって着実にやっていくと、今度はその時間が活かされた複利効果のようなことが起きたりするので、「振り返ったら早い」。そして、次元Aも強化されているような時があると思う。

名より実を取る。損して得取れ。

 

ですから、私の考え方として次元Aの状態を中心に考えていくという姿勢です。

 

これらを踏まえて、今日はバランスについて書いていきます。

 

バランス 一考

今のうちに書いておきますが、この項は長くなる様な気がするので、次回に持ち越しもありそうです。

 

良い 悪い

A0(ゼロ)、B0(ゼロ)と良いか悪いかの選択をするスタート地点があったとします。

分かりやすくAもBも進んでいくという線を引きました。すると、2,3,4と進んでいくにつれ差が開くというこのラインが多くの方の「どんどん良くなる」「どんどん悪くなる」というイメージ図になるでしょうか?

 

私はAと感じるコースも、Bと感じるコースも体験しています。Aは私自身が良くなることを目指していて、それが運よく波に乗ったような感覚があったし、Bは「底がないぜ」と結構シンドク感じた。(夜が明ける前が一番暗いとか、あんなの当てにならんよ。っていうか、底が無いのに夜なんて明けるの?)とボヤキ期でした。 ボヤキ期にもまた思考の転換もありましたよ! 結果良かったので、「僥倖」と度々書いています。あんなにシンドかったのに、「僥倖」とか簡単に漢字2文字で表されちゃって腹が立つわ、と昔書いたことがあります。今はもうその具体的なシンドさが全然思い出せない。(笑) 確かに僥倖だ。

悟り・解脱について 以前考えていたことと最近感じたこと

 

「違いを考察してみた。影響を受けやすいヒトと受けにくいヒトの違いはなんだろう?」の回で、スターウォーズを例題にフォースのチカラの使い方、質の違いを書いていますが、まさにこの図で再確認して頂きたいのですが、フォースの力はAにもBにも使われています。元々同じもの。 そういう意味で、良いとか悪いとか決めてみているけれど、そのバイアスを取っ払うと A2≒(ニアリーイコール)B2 というような事象って多いもんですよ(と、私は感じています)

 

そう、良いとか悪いとかのバイアスを取り除くと、なんとやってることは非常に似ている、なんてことが。

 

信仰や教えも、Aにもなれば、Bにもなる。Aは間違いだとか、Bは間違いだとか非難したり否定するけど、構造は同じで、A3≒(ニアリーイコール)B3となることがある。結構多い。

鏡の法則という名前は知っているが、その内容はおぼろげですし、現在はこれを追及する気持ちがありませんが、こういった≒(ニアリーイコール)のことをおっしゃっているんでしょうか? 

 

ですから、良いとか悪いとかじゃなくて、左右に分かれていくこんな図の方が本当のところを現わしているのかもしれません。

 

 

≒(ニアリーイコール)の2つの世界

事例1 Aのつもりが!?

生きやすさの創造を考えてみた

 

崇高な存在になりたい。良い道を進んでいたはずなのに崇高への執着や欲望が炸裂するのだろうか? 真逆な状態になってしまうこともあるようだ。

崇高への道をかなり来たな~ 進んだな~ 良い道「A100」まで来てるね~とその進捗に益々拍車がかかり「A兆」にいるつもりになることがある。 しかし、ふとナニカのきっかけでそこが「B兆」だと気がついて呆然としたり、大変なショックを受けることがある。

 

覚醒とはなんだろう?

 

不思議なんだけど、AもBも なんだか呼び水的事象が起きたりするものだ。

シリーズ3話目 リアルな空想は現実になるのか? 

 

過剰な意味づけには注意が必要な時もあると思えますね。

Aをどんどん進んで行っても、Bをどんどん進んで行っても、構造としては自我の肥大というようなことが進行している時がありますね。しかし、Aを良いと思っている場合は、良い道を進んでいるという思い込みから、自我をそぎ落とせている錯覚に陥るところが結構厄介なのかも。
 

 

そう言えば、天使と悪魔で言えば、(私の薄っぺらな知識では)悪魔は堕天使とのことなので、≒(ニアリーイコール) という見方もできる。

 

事例2 悟った。世界を見通した。

私は非常に心体が弱った時に、世界の構造の隙間がチラッと見えちゃったような気がしたときがあった。

外からのメッセージ? 自分の考え?

 

この時期に、心体が弱ってヨレヨレな私は、生産性ガタ落ちと自覚しながらもそれでも出勤していた(当時勤めていた)会社からの帰り道、天啓に打たれたように頭に浮かんだあのシーンを今でも思い出せる。 (なるほど! 精神が不安定になった方が「世界を見通した(見通せる)。だから私は世界の覇者だ」と言うのも そりゃそうなんだな。ヒトによっては私は神だと言い始めるわけだな。)ということに気がつけるような感覚があった。私のラッキーなところは、「私は世界の覇者だ」と思わなかったところです。やはりそれは「こういう感覚がしたらそりゃそう思うよな」という理解で止まったことだった。 そして、(ダメだこりゃ、相当ダメージ受けてるな。)と自分の状態を把握しました。

 

ですから、一般的なイメージのB・悪いとレッテルと貼りたいような状態でも、崇高な状態に私は居るんだ。覇者だ。と思い込めるという事です。B200で、A200を目指している皆さんが(きっとAの頂点にいけばこれが得られる)と目論むのと同じような ≒(ニアリーイコール)感覚があるんですよね。

多次元と素粒子とミラーニューロン その他もろもろ みな一緒

 

 

確かにBにいて、天啓ってこんな風に感じるの? という「ハッと」した感じもありますよ。 心体ヨレヨレでしたが。(笑)

 

しかし、とても心体健やかに、快適に暮らしており、(あぁ ありがたい、ありがたい。)と感じていた日々にも天啓風な(おや?)という感覚があった。

 

事例3 隙間から覗いちゃった??

AとBの両方の状態で、 「すべてが根こそぎ消失した」 と感じるようでもあり、今の世界の隙間を見たような気持になったようにも感じた。

 ↓

なんにもなくなっちゃった後 只今のところ(解脱説をどう考える?)

 

 

 

どちらもONとOFFがでる

このように見ようが

このように見ようがどちらにも言えることがある。

 

それはAでもBでもONとOFFがでる。

そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?

 

 

(一人)ぼっち研究とは、1つの科学なのかもしれないが、そんなことをやっていると、(おや?)と盲点みたいなものに気がつく時がある。

(ってことは、どういうことになるの?)と疑問点を色々分解し始める。 

 

補助線を引いてみよう

 

そう、私は以前から「何かしらの中心にいることが良いみたい」と書いてきた。

このようにしか生きられない。

 

それがこの補助線だろう。

補助線という言葉を覚えていただけでも自分を褒めたいよ。(笑) 補助線の意味がまさにピッタリではないか!

 

ONやOFFを確認して、Bは悪いから、Aの方向へバランス調整するという無意識的な行為やイメージを行っていることが多いとお見受けするが、A≒(ニアリーイコール)Bであるという可能性を考えるのなら、どっちにも触れない 補助線0(ゼロ)を意識してバランス調整されてはどうだろうか?

 

私が「シャドウ統合ワーク」と表現しているメニューもこういったことを行っています。

シャドウ統合ワーク 集中2days

 

統合心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアも同じくです。

統合心体カウンセリング™ をうける

 

もちろん90分コースの心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアも時間内にできるところまでやります。

心体カウンセリング™  7つの単体メニュー

 

 

電気で言えば中性子と言えるのでしょうか? またちょっと違うような気もしますが、電荷をもたないと補助線0(ゼロ)と同じ意味になるんだろうか? でもまぁ、生体電気が中性子だけっていうのも無いだろうから、せめてストレスに感じる認知を中性子の意味合いにしていくというのは? まぁ 0(ゼロ)というのが想像しやすいでしょうね。

馬鹿丸出しでお恥ずかしいのですが、0(ゼロ)って別名「虚数」なのかな? 虚数って書いても良いのかな?と検索したら、虚数って2乗したら ー1(マイナス1)なんですって。 だから0(ゼロ)を虚数って書いちゃ駄目ですね。勉強になりました。(いまさら)

 

 

 

今日はこの辺りで終わります。

今日つかったA≒(ニアリーイコール)Bの図は、実は他にも書きたいことがあるので、次回書きます。

 

(2021/05/09)

 

 

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